歌って踊れる「ブギウギ」を流行歌にしようと思った服部
ともかく、服部がブギウギを「アメリカの新リズム」で、ステージで「歌って踊る」ものと捉えていることがわかる。
戦後の『ジャズ・カルメン』でも「トランプのコーラス」「闘牛士の歌」で取り入れている。
「三度、テストは行なっていた。今度は、いつ、ブギのリズムで流行歌を作るかということである」として、「それより少し前」にジャズ評論家で「雨のブルース」の作詞も手掛けた野川香文と夜の銀座を飲み歩いていた際のエピソードが自伝に記されている。「こんな女に誰がした」という歌詞の「星の流れに」がどこからか流れてきて、服部が「焼け跡のブルース、というのはどうだろう」と言うと、野川は、「いや、今さらブルースではあるまい。それに、今はブルースを作る時機ではない。ぐっと明るいリズムで行くべきだ」と答え、それに対して「それならブギウギがいい」と意気投合して「まるでミュージカルの主人公のような足どりで銀座の舗道を踊り歩いた」という。
このエピソードの中では笠置への言及はなく、「流行歌」と限定していることからも、笠置の「センセ、たのんまっせ」より前だっただろう。実際、服部の作品リストには、「東京ブギウギ」以前の1946年に「神戸ブギ」なる曲が笠置シヅ子で録音されたとある。このレコードは見つかっておらず、発売されなかった可能性もある。いずれにせよ、服部がブギウギのリズムを用いた新曲を計画していたことは疑いない。
電車の振動音が生んだ名曲「東京ブギウギ」
服部が実際に「東京ブギウギ」の着想を得たのは、「笠置シヅ子の再起の曲を引き受けて間もなく」、コロムビアで「胸の振子」を録音した帰りの終電に近い中央線の中だった。服部楽曲中のメロウでセンチメンタルな方向では一、二を争う名曲(凡庸な評価だが、個人的には「蘇州夜曲」と「胸の振子」がツートップだと思う)を録音した余韻の中で「東京ブギウギ」が発想されたというのはあまりに劇的だ。
電車が西荻窪に停るやいなや、ぼくはホームへ飛び出した。浮かんだメロディーを忘れないうちにメモしておきたい。駅舎を出て、目の前の喫茶店『こけし屋』に飛び込んだ。ナフキンをもらって、夢中でオタマジャクシを書きつけた。