数万人を関所で足止めし、10万の徳川軍に見せかけた

この勢多に関所を急造して、商人や旅人を3日間せき止めたのである。足止めされた人々は数万人に及んだ。この間、ようやく徳川の兵も江戸から勢多まで馳せのぼってきた。そこで康政は、頃合いを見計らって関所を開いた。すると、先を急ぐ人々は怒濤どとうのように京都方面へなだれ込んでいった。じつはこれが康政の狙いだった。

康政はこのとき「10万の徳川軍が大挙してやってきた」というデマをまき散らしたのだ。が、それでも怒りのおさまらない康政は、さらに三成を狼狽させてやろうと、「10万の徳川軍が到着したので、大量の兵糧が必要になった」と京中に触れを出し、あらんかぎりの金で食糧を買い占めたのだ。三成らは、戦々恐々としたのではないだろうか。あっぱれな情報戦術だといえる。

徳川本隊の総大将だった秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わず

それからまもなくして、家康は関ヶ原合戦で三成ら西軍を倒し、覇権を握った。だが、この戦いで活躍したのは、外様大名ばかりだった。

総大将として徳川本隊を率いて西上していた家康の息子・徳川秀忠が、真田氏の上田城攻めに手こずり、戦いに間に合わなかったのだ。家康は、後継者の秀忠に花を持たせてやろうと、参謀に自分の寵臣である本多正信をつけ、榊原康政、大久保忠隣といった大身の猛将を配してやった。にもかかわらず、このような失態を犯したので、激怒した家康は秀忠に対面を許さなかった。このとき、意を決して家康のもとを夜密かに訪れたのが、康政であった。康政は秀忠のために次のような弁明をおこなったといわれる。

徳川秀忠像
徳川秀忠像(画像=松平西福寺蔵/Blazeman/PD-Japan/Wikimedia Commons

「父子一緒に戦うというのであれば、なぜもっと早く出陣の日を知らせてくれなかったのですか。9月1日に江戸を出立するので、急ぎ馳せのぼれと我々が聞いたのは、9月7日のことです。秀忠様もこの知らせに驚き、急いで軍を進めましたが、木曽は名に負う難所であるうえ、大雨のため人馬も疲れ果ててしまいました。石田三成など大したことはできないのですから、清洲城にもう少し御滞座あってもよろしかったはず。なのにどうして出陣をお急ぎになられたのか。なお上田城は、ぜひ攻め破ってから西上すると秀忠様がおっしやったのを、本多正信らがとどめたため、仕方なく押さえの兵を残して道を急ぐことになったのであり、落とせなかったわけではございません」