徳川家康の後継者でありながら天下分け目の関ヶ原合戦に間に合わなかった秀忠。歴史作家の河合敦さんは「家康は怒って合戦後、秀忠に会おうとしなかったが、秀忠に同行していた榊原康政が決死の覚悟で『父親としての息子への不満を世に知らしめれば、後継者失格と思われてしまう』と家康をいさめた」という――。

※本稿は、河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。

徳川秀忠像
「榊原康政像」(画像=文化庁所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

家康より6歳下、地味だがとにかく強かった榊原康政

NHKの大河ドラマ『どうする家康』は、チーム家康を描いてきた。そんな家康の家臣の代表といえば、徳川四天王である。酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政の四人だ。このなかであまり知られていない人物といえば、やはり榊原康政ということになろうか。そこで本記事では、この人物をフィーチャーしてみたい。

のちに「或いは城を攻め、或いは野に戦う事、数をしらず。およそ康政が向かうところ、打ち破らずという事なし」(新井白石著『藩翰譜はんかんふ』)と評された康政は、実際、今川氏の吉田城攻め、姉川の戦い、長篠の戦い、武田方の高天神城攻めなどで奮迅の活躍を見せた。

もともと榊原氏は、伊勢国の守護・仁木氏の流れをくみ、当主が清長の時代に三河国額田郡にじゅうしたことに始まる一族である。榊原姓は居住地の地名をとったといわれるが、それは三河ではなく伊勢国壱志いちし郡だったという説もある。その後、榊原清長は松平親忠(家康の先祖)に仕え、その子・長政が家康の父である広忠に仕え、その重臣である酒井忠尚に付属していた。

13歳で家康に小姓として仕え、合戦で有能ぶりを発揮

天文17年(1548)、長政の次男として生まれた康政は、桶狭間合戦後に岡崎に戻ってきた家康に小姓として取り立てられた。家康より6歳年下だったので、13歳だったことになる。三河の大樹寺(徳川家の菩提寺)で学問を学んでいたといわれるが、次男なので寺に入れられたのかもしれない。

その2年後に父の長政が死去し、康政は叔父の一徳の養子となり、名を於亀(亀丸)から小平太と改めた。そんな康政の初陣は16歳のとき。敵は家康を危機に陥れた三河の一向一揆(上野城の戦い)だった。

このとき家康の「康」の字を賜り、康政と名乗るようになったが、以後は久能くのう城攻め、堀川城攻め、姉川の戦いなどでたびたび先陣を切って戦い、傷を被りながらもたじろぐことなく相手を圧倒した。とくに姉川合戦での勝利のきっかけは、康政が朝倉軍に急襲をかけたからだといわれる。

有名な武田勝頼との長篠合戦直後にも、猛将の本多忠勝とともに諏訪原城を陥落させ主君の家康から高木貞宗作の名刀を授けられている。武田の弱体化を決定づけた高天神城攻略戦では、なんと敵の首を41個もとるという驚くべき活躍を見せた。

とにかくこの男、強いのである。

武勇だけでなく、秀吉からも絶賛された知将でもあった

優れていたのは武力だけではない。知略も抜きん出ていた。とくに際立ったのは天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いだ。

家康は、信長の次男・信雄と結んで尾張の小牧山に陣を敷いて羽柴秀吉軍と対峙たいじした。戦八は持久戦の様相を呈し始めた。このとき康政は「太閤(秀吉)、君(信長)恩を忘れ、信雄と兵を構ふること、その悪逆のはなはだしき言ふべからず。しかるを太閤に従ふ者は皆、義を知らざるなり」(『寛政重修諸家譜』)と書いた檄文を敵陣へ送りつけたのだ。

これを見た秀吉は激怒し、康政を討ち取った者には、「その賞、望むところにまかす」という触れを出し、無制限の懸賞金をかけたという。

結局、徳川軍は長久手の戦いで勝ったものの、信雄が秀吉と単独講和を結んだため、戦う名目を失い家康は撤退した。

楊洲周延作「小牧山ニ康政秀吉ヲ追フ」
楊洲周延作「小牧山ニ康政秀吉ヲ追フ」。小牧長久手の戦いのとき、秀吉を討ち取る寸前まで追ったという榊原康政を描いた浮世絵、江戸時代[出典=刀剣ワールド財団(東建コーポレーション株式会社)

後年、講和が成り、家康と秀吉の妹・朝日姫との婚儀が成立する。このとき康政は、家康の命令で結納の使者として上洛し、秀吉と対面した。すると秀吉は檄文の件を口に出し、「あのときは、お前の首を望んだが、今ではお前の家康に対する忠節に感じ入っている」とほめ、陪臣としては破格の待遇というべき従五位下式部大輔しきぶのたいふに康政を叙任した。

秀吉が死去した際は巧みな情報戦術で三成を牽制

小田原攻めで北条氏が滅ぶと、秀吉は家康の領地を関東へ移封し、江戸城を拠点とするよう命じた。すでに東海地方を中心に五カ国の大大名になっていた徳川家ゆえ、この転封という大引っ越しはさぞかし大変だったろう。この関東移封の総奉行を務めたのが康政であった。家臣たちから文句が出ぬよう細心の注意を払って知行割りをおこなったのだった。自身はこのとき十万石を家康から拝領し、館林城主となった。

秀吉の死後、石田三成を中心とした反家康派が伏見城にいる家康を襲撃するという風説が江戸にいた康政のもとに届いた。これを聞いた康政は、旅装も整えずに馬に飛び乗ると、伏見へ向かって無我夢中で駆け出したという。乱髪のまままげさえ結わず、すさまじい形相で土煙を上げて東海道を走り抜けた。いかに主君の身を案じていたかがわかる。

だが、近江国勢多おうみのくにせた(現在の滋賀県大津市)まで来たとき、家康の無事を知った。しかし、三成派はまだ何をしでかすかわからず、安心はできない。そこで康政は一計を案じた。

数万人を関所で足止めし、10万の徳川軍に見せかけた

この勢多に関所を急造して、商人や旅人を3日間せき止めたのである。足止めされた人々は数万人に及んだ。この間、ようやく徳川の兵も江戸から勢多まで馳せのぼってきた。そこで康政は、頃合いを見計らって関所を開いた。すると、先を急ぐ人々は怒濤どとうのように京都方面へなだれ込んでいった。じつはこれが康政の狙いだった。

康政はこのとき「10万の徳川軍が大挙してやってきた」というデマをまき散らしたのだ。が、それでも怒りのおさまらない康政は、さらに三成を狼狽させてやろうと、「10万の徳川軍が到着したので、大量の兵糧が必要になった」と京中に触れを出し、あらんかぎりの金で食糧を買い占めたのだ。三成らは、戦々恐々としたのではないだろうか。あっぱれな情報戦術だといえる。

徳川本隊の総大将だった秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わず

それからまもなくして、家康は関ヶ原合戦で三成ら西軍を倒し、覇権を握った。だが、この戦いで活躍したのは、外様大名ばかりだった。

総大将として徳川本隊を率いて西上していた家康の息子・徳川秀忠が、真田氏の上田城攻めに手こずり、戦いに間に合わなかったのだ。家康は、後継者の秀忠に花を持たせてやろうと、参謀に自分の寵臣である本多正信をつけ、榊原康政、大久保忠隣といった大身の猛将を配してやった。にもかかわらず、このような失態を犯したので、激怒した家康は秀忠に対面を許さなかった。このとき、意を決して家康のもとを夜密かに訪れたのが、康政であった。康政は秀忠のために次のような弁明をおこなったといわれる。

徳川秀忠像
徳川秀忠像(画像=松平西福寺蔵/Blazeman/PD-Japan/Wikimedia Commons

「父子一緒に戦うというのであれば、なぜもっと早く出陣の日を知らせてくれなかったのですか。9月1日に江戸を出立するので、急ぎ馳せのぼれと我々が聞いたのは、9月7日のことです。秀忠様もこの知らせに驚き、急いで軍を進めましたが、木曽は名に負う難所であるうえ、大雨のため人馬も疲れ果ててしまいました。石田三成など大したことはできないのですから、清洲城にもう少し御滞座あってもよろしかったはず。なのにどうして出陣をお急ぎになられたのか。なお上田城は、ぜひ攻め破ってから西上すると秀忠様がおっしやったのを、本多正信らがとどめたため、仕方なく押さえの兵を残して道を急ぐことになったのであり、落とせなかったわけではございません」

秀忠に対面を許さない家康に意見して、秀忠に感謝された

鬼気迫る表情で康政は、家康の落ち度や誤解を言いつらねていった。懲罰を覚悟したうえでの言動だったろう。さらに、

「親子の間ですから、日常のことなら御譴責けんせきもあるでしょうが、秀忠様はゆくゆくは天下を治める方。そんな方が、弓矢の道において父君の、心にかなわない者であると世に示せば、人々のあなどりを受けるでしょう。これは御子みこの恥辱のみならず、父の御身の恥辱ではありませぬか」。

河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)
河合敦『日本史の裏側』(扶桑社新書)

そう言いながら、ついに泣き出し、それでも秀忠のために弁明し続けた。そんな老臣の姿を見て、さすがの家康も気持ちがほぐれ、その翌日、秀忠に対面を許したと伝えられる。

この事実を知った秀忠は、「此度こたびの心ざし、我が家の有らんかぎりは、子々孫々にいたるまで、忘るる事あるまじ」(『藩翰譜』)という自筆の感状を康政に与えたという。

やがて家康が幕府を開き、平和な時代が訪れると、「老臣、権を争うは亡国の兆しなり」と言って、康政は宿老の身ながら政治に口をはさまなかった。そして慶長11年(1606)、にわかに病を得て、59歳でその生涯を閉じたのである。