茶々は秀頼の「羽柴家当主」としての立場を守ろうとした
関ヶ原合戦は、江戸方・大坂方ともに、「秀頼様御為」を標榜しての抗争であった。すなわち政権内における権力闘争としての性格のものであり、そのため羽柴家当主としての秀頼の地位は、理論的には、双方にとって変わらないものであった。しかし、それらは当事者の認識にすぎなかったともいえる。9月27日の家康と秀頼の対面について、例えば、京都の公家である山科言経は「秀頼卿と和睦也と云々」と記している。世間ではこの合戦について、家康と羽柴家との対立とみる向きもあったことがうかがわれる。
実際、毛利輝元が家康に代わって大坂城西の丸に在城したことについて、茶々と秀頼はそれに異を称えたわけではなく、容認したものと思われる。茶々の意向としては、政権内部の権力闘争に対して、どちらにも肩入れしないことで、それらから超然とした「羽柴家当主」秀頼の立場を維持しようとしたのだろう。しかし、世間ではそれを、家康への敵対と受けとめていたとしても当然のことであったし、そうであるからこそ、茶々と秀頼は、合戦後ただちに、家康への支持を表明する必要があったともいえる。
またちょうどこの時は、先にみたように、江戸方と大坂城西の丸にいた毛利輝元との間で、輝元の西の丸退去の交渉がすすめられていた。「大坂城のこと」とは、このことを意味しているとみてよいであろう。茶々と秀頼が、そのように家康支持の態度を示したことで、輝元の退去も無難に実現されると考えられたのであろう。実際、その後に輝元はすんなりと退去していくのである。茶々と秀頼が家康支持の態度を示した以上、輝元にとってそれは仕方のないことであったと思われる。
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。近刊に『家康の天下支配戦略 羽柴から松平へ』(角川選書)がある。