※本稿は、黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)の一部を再編集したものです。
15歳の時、32歳上の秀吉から「妻に」という申し出を受けた
信長の死後、茶々の母市は、織田家宿老の柴田勝家に再嫁することになり、岐阜城で婚儀をあげたうえで、勝家の本拠の越前国北庄城に移っていき、娘の茶々らもそれにしたがって北庄城に入った。しかし天正11年4月、秀吉と勝家が対戦した賤ヶ岳合戦の結果、北庄城は落城、柴田勝家は市とともに自害した。茶々ら姉妹は、今度は秀吉に庇護されることになり、安土城に置かれたとみられている。
当初から秀吉の庇護をうけていたとみられているが、それは母市の要請であったという。秀吉は茶々らを引き取った直後に、茶々に使いを出し、その趣旨は「私(御主)と一緒になっていただきたい」というものであった。茶々は15歳(史料表記は「13」だが誤り)であったが、「御知恵よく、御内証無沙汰の様子、御聞き及びも御座候ゆえ」と、知恵も廻り、秀吉の内意は決定ではないと聞いていたので、「このように親なしになって、秀吉を頼みにするからには、どのようにも秀吉の指図通りにするが、先に妹たちの縁組みを調えていただき、そのうえで秀吉とのことはどのようにでもしていただきたい」と返事したという(「渓心院文」)。
茶々は賢い少女で秀吉に妹たちの縁組みを優先させた
ここからは、茶々が賤ヶ岳合戦後、秀吉に引き取られるとすぐに、秀吉の妻に迎えられることになっていたことがわかる。この秀吉からの要請に対して、茶々は、まだ15歳であったものの、知恵が廻った人物であったらしく、秀吉の申し出をうけいれるかわりに、先に妹たちの縁組みを取り計らうことを要請している。茶々は長女として、まずは妹の立場の安定を図ったものととらえられるであろう。茶々は決して凡庸な人物ではなく、むしろ賢い部類にあったことがわかる。
また、茶々がここで、親のない身となってしまったので、これからは秀吉を頼るしかない、と述べていることは重要である。茶々の人生を考えるにあたって、この「親がいない」ということが、その後の人生を決定的に規定した、極めて重要なキーワードとして受けとめられるからである。