“私固有の体験”か“女性の体験”かを考える大変さ
ある特定の女性の経験が軽視されているのであれば、その人が軽視されていると指摘すればよいわけですから、「女性の経験の軽視」と言うときの「女性」は集団としての女性を指しているはずです。その集団の中の個々の女性は、何かしらのよくある経験を共有していることも、またほかの人とは異なる珍しい経験をしていることもあるでしょう。
そしてどちらの経験も、その人が女性であるということと関連している場合があります。でもおそらく、「女性ならではの視点」という言葉が想定しているのは、前者の「よくある経験」だけです。
ですから、「女性ならではの視点」を期待される人は、自身の女性としての経験の中から多くの女性が共有できる経験を切り出して、必要とされている話し合いなどの場に価値あるものとして提示することを期待されるわけです。
でも、これでは「私の女性としての経験の中には価値のないものもあると自身で認めること」を要求されているわけで、むしろ女性の経験は軽視されていないでしょうか。また、個々人は自分の人生のみを生きているわけですから、自分の経験が多くの人に当てはまる共通のものであるかを確かめるのも、じつは簡単ではありません。「女性ならではの視点」を提示しようとするために、個々の女性は自身の経験が一般的なものなのかをわざわざ考える手間をかけなければならないのです。
男性は「その人なりの視点」を求められるのに
これは、そもそも「男性ならではの視点」を期待されることが少なく、期待されるとしたら「その人なりの視点」を、という男性の場合とは対照的です。男性が会議などの場で発言するとき、その発言がほかの男性の意見も反映しているかを考える必要はほとんどの場合ありません。
同じことを別の表現で言い換えてみましょう。マジョリティ特権についての専門家である米国のダイアン・グッドマンは、マジョリティ特権(社会におけるマジョリティがマイノリティとは違って逃れることができている負担)の一例として、「マイノリティ代表として発言することを要求されないこと」を挙げています。
自らの属する集団の人々の意見を集約したり反映させたりすることなく、自分自身の意見を自由に述べられるという状態は、じつは誰にでも与えられているものではなく、マジョリティに特有のものなのです。男女はほぼ同数ですから「マジョリティ/マイノリティ」と言い直すことに違和感があるかもしれませんが、これは社会の中での発言が尊重されやすいかそうでないかについて差があるということで、「男性は男性代表として発言することをほとんど要求されない」のは、やはりマジョリティ特権のひとつ、と言えるでしょう。