「女性ならではの視点」を求められた女性が違和感を持つのはなぜなのか。社会学者の森山至貴さんは「これまで社会のしくみのかなりの部分が、男性のあり方を前提として設計されてきた。女性の経験に注目するのはいいことだが、だからといって個々の女性が『女性ならではの視点』を期待されることを正当化できるわけではない」という――。(第3回/全3回)

※本稿は、森山至貴『10代から知っておきたい 女性を閉じこめる「ずるい言葉」』(WAVE出版)の一部を再編集したものです。

会議室
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女性A「なんで私もこのプロジェクトのメンバーなんですか?」
男性B「最終的には新しい女性向けの医療保険を作ることが目標だからね」
女性A「でも私、ずっと学資保険の担当でしたよ」
男性B「山口さんは女性だからだよ。女性ならではの視点からの意見が欲しくてさ」

女性の経験は、まだまだ軽視されている

組織で働いている以上、いつも自分に向いている慣れた仕事をさせてもらえるわけではない。そうはわかりつつも、「なぜ私がこの仕事を?」という問いに納得のいく答えが欲しいと思うこともあるでしょう。また、その答え、つまり自分に何が期待されているのかがわかれば、仕事の質が上がる、ということもあるはずです。

では、「女性ならではの視点」が求められているとわかったら、「なるほどそういうことか」と納得して女性は仕事に前向きになれるものでしょうか。もちろん場合にもよりますが、荷が重い、気が進まないと思う人も多いように思います。なぜでしょう。

前提から確認します。たしかに今、企業を含め社会の多くの場面で、女性の経験に注目することが求められています。というのも、社会のしくみのかなりの部分が、男性のあり方を前提として設計・運営されているという事実があるからです。たとえば、医薬品研究が女性を対象としてこなかったことへの反省から生まれた性差医療なども、女性の経験に注目する試みのひとつと言えるでしょう。ですから、医療保険が女性の経験に配慮できていないのであれば、そこに注目することはもちろん素晴らしいことです。

ただし、女性の経験が配慮されるべきだからといって、そのために個々の女性が「女性ならではの視点」を期待されることを正当化できるわけではありません。むしろ、そういう期待にこそ、女性の経験が配慮されていないという問題が表れているのです。順を追って説明します。

“私固有の体験”か“女性の体験”かを考える大変さ

ある特定の女性の経験が軽視されているのであれば、その人が軽視されていると指摘すればよいわけですから、「女性の経験の軽視」と言うときの「女性」は集団としての女性を指しているはずです。その集団の中の個々の女性は、何かしらのよくある経験を共有していることも、またほかの人とは異なる珍しい経験をしていることもあるでしょう。

そしてどちらの経験も、その人が女性であるということと関連している場合があります。でもおそらく、「女性ならではの視点」という言葉が想定しているのは、前者の「よくある経験」だけです。

ですから、「女性ならではの視点」を期待される人は、自身の女性としての経験の中から多くの女性が共有できる経験を切り出して、必要とされている話し合いなどの場に価値あるものとして提示することを期待されるわけです。

でも、これでは「私の女性としての経験の中には価値のないものもあると自身で認めること」を要求されているわけで、むしろ女性の経験は軽視されていないでしょうか。また、個々人は自分の人生のみを生きているわけですから、自分の経験が多くの人に当てはまる共通のものであるかを確かめるのも、じつは簡単ではありません。「女性ならではの視点」を提示しようとするために、個々の女性は自身の経験が一般的なものなのかをわざわざ考える手間をかけなければならないのです。

男性は「その人なりの視点」を求められるのに

これは、そもそも「男性ならではの視点」を期待されることが少なく、期待されるとしたら「その人なりの視点」を、という男性の場合とは対照的です。男性が会議などの場で発言するとき、その発言がほかの男性の意見も反映しているかを考える必要はほとんどの場合ありません。

森山至貴『10代から知っておきたい 女性を閉じ込める「ずるい言葉」』(WAVE出版)
森山至貴『10代から知っておきたい 女性を閉じこめる「ずるい言葉」』(WAVE出版)

同じことを別の表現で言い換えてみましょう。マジョリティ特権についての専門家である米国のダイアン・グッドマンは、マジョリティ特権(社会におけるマジョリティがマイノリティとは違って逃れることができている負担)の一例として、「マイノリティ代表として発言することを要求されないこと」を挙げています。

自らの属する集団の人々の意見を集約したり反映させたりすることなく、自分自身の意見を自由に述べられるという状態は、じつは誰にでも与えられているものではなく、マジョリティに特有のものなのです。男女はほぼ同数ですから「マジョリティ/マイノリティ」と言い直すことに違和感があるかもしれませんが、これは社会の中での発言が尊重されやすいかそうでないかについて差があるということで、「男性は男性代表として発言することをほとんど要求されない」のは、やはりマジョリティ特権のひとつ、と言えるでしょう。

関係とチームワークに関する概念的な 3D レンダリング
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「女性の代表」扱いはしんどい

「女性ならではの視点」を期待されるとき、女性は知らず知らずのうちに個人ではなく「女性の代表」として発言したりアイデアを提供したりすることを求められます。これでは荷が重いと感じるのも当然です。

せめて「プロジェクトに女性が少ないことに危機感を持って招集したが、女性を代表する必要はないので個人の意見を積極的に言ってほしい」などというフォローがあるとよいと思います。「代表者扱い」の重圧や自身の経験を精査する手間から離れたところでなら、個々の女性は提供できる、また提供すべき視点や経験をたくさん持っているはずですから。

抜け出すための考え方

「女性ならではの視点」を求めることは、個々の女性に「女性の代表として語る」という不当な要求を課すことになる場合が少なくありません。男性にそれが求められていないのですから、女性にも個人としての意見を求めるべきであり、そのうえで何が女性の経験への配慮になるかを吟味していくべきでしょう。

もっと知りたい関連用語

【マジョリティ/マイノリティ】

多数派/少数派と訳されることもあるため、単純に数の大小の問題だと理解されることが多いのですが、社会が「標準」としている属性かそうでないかという観点からの区別であると考えるほうが適切です。社会構造によってその属性の中での権限や富の多さ/少なさが決まっているという点を理解してもらうために、私は大学の授業などでは「構造的強者/構造的弱者」と説明したりもします。男性がマジョリティ、女性がマイノリティと言いうるのも、この観点によるものです。

もっと深まる参考文献

ダイアン・グッドマン著、出口真紀子監訳、田辺希久子訳、2017『真のダイバーシティをめざして―特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育』上智大学出版