※本稿は、阿部恭子『家族が誰かを殺しても』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。
「宮崎で事件があったって……。5カ月の男の子がおらんらしい」
拘置所の面会室。夫婦は並んで座り、刑務官に連れられ入ってくる息子を待っていた。福岡拘置所まで車で片道2時間。それでも親子に与えられる面会時間は20分足らず。アクリル板に遮られ、目の前に置かれた息子の手を握ることさえ許されない。こうして面会することが許されるのは、あと何度なのか……。
息子が塀の中で生活するようになってもはや10年以上が過ぎ、最近は、「最後の日」を意識するようになった。もう一度会えますように……、いつも、そう願いながら手を振って別れる。2人の長男・奥本章寛(当時20代)は、2014年10月16日に死刑が確定した死刑囚である。
「その子はおまえの子どもではあるけれども、おまえのお腹を借りてこの世に生まれただけだ。その後は、この子の人生だ」
章寛の母・奥本和代(当時50代)は、事件が起きて以来、実父に言われた言葉を思い出すようになった。「何を言っているんだろう。男の人は感覚が違うのかしら? 『私の子』でしょ」
妊娠した当時、そう言われた和代は首をかしげながらお腹をさすっていた。しかし、父親の言う通り、息子は想像もできなかった人生を歩み始めていた。かつて身体の一部だった我が子とは、塀の中と外に分断されていた。息子は、たとえ血のつながった親子でも越えることのできない、高い壁の向こうに行ってしまったのだ。
福岡県豊前市。和代はその日、自らが働く介護施設で、夜勤を担当していた。ある利用者と話をしている時、はじめて事件のことを耳にした。
「宮崎で事件があったって……。5カ月の男の子がおらんらしい」
和代はドキッとした。
「え? うちの孫も5カ月よ……」
動揺していると、すぐに夫の奥本浩幸(当時50代)から連絡があった。章寛が宮崎で事件を「起こした」のだという。
「まさか……」
和代は慌てて車のエンジンをかけ、自宅に向かった。到着すると、すでに事件の知らせを聞いた地域の人々が集まってくれていた。章寛は殺人罪で逮捕されていた。