べニア板張りの「接待場」で泣き叫ぶ女性たち
連れて行かれたべニア板張りの「接待場」では、女性たちは布団の上に並んで横たえりました。彼女たちの言葉を借りれば、「辱めを受ける」あいだお互いに手をしっかりと握りあい、泣きながら暴行に耐えたそうです。覚悟していたとはいえ、「助けて、お母さーん、お母さーん」と泣き叫ぶ女性もいました。
暴行の事後処理として、彼女たちは医務室に行き、性病や妊娠を防ぐために薬品を管で体内に注いで洗浄を受けます。彼女たちより年下の女性が、泣きながらその冷たい薬液を注ぐ仕事を手伝ったという証言も残っています。
こうして、何カ月もの過酷な試練に耐えた結果、黒川開拓団は暴徒の襲撃から守られたのです。ただ15人の中の4人は、性病や発疹チフスにかかり、帰国できないまま命を落としました。集団自決をする開拓団が相次ぐ中で、総員662人の開拓団のうち451人が生きて帰れたのは、まさに彼女たちの犠牲のおかげだったと言っていいでしょう。
90歳近い高齢になりながら、70年間も封印してきた辛い記憶を、よくぞ語り継ぐ気持ちになってくれたと思います。
帰国後に向けられた中傷、差別的な言葉
それにしても、彼女たちは、その辛い記憶をなぜ封印してきたのでしょうか。
それは思い出したくもない辛い記憶だったからでしょう。しかし、思い出したくもないその「辛さ」が、じつはあの忌まわしい凌辱の「辛さ」だけではなかったからなのです。
本来なら土下座してでも感謝しなくてはならないはずの彼女たちの行為に対して、心ない中傷や差別的な言葉が仲間内でそこここでささやかれ、それが彼女たちにも感じられたからでした。そうした言葉は、じつは辛い「接待」が行われている当時から、すでに囁かれていたといいます。
国に帰ってからも、ほかの女性の身代わりで「接待」の回数が多くなった女性が、仲間の男たちから「○○さんは好きだなー」とからかわれたり、「(体を提供しても)減るもんじゃなし」などと言われたりしたといいます。これらの言葉は、凌辱の体験以上にどれほど彼女たちの心と体を傷つけたでしょう。
そして、「露助(ソ連兵)のおもちゃになった人」「汚れた女」といった秘かなレッテル貼りが、人びとの間に根強く残っていたのです。この「接待」の事実は、女性たちの将来のためにも良くない、団の恥でもあるとして、開拓団もひた隠しにしてきました。
昭和58年には、「接待」のことが実名を伏せて雑誌「宝石」に書かれましたが、地元の書店では人目に触れないよう、開拓団関係者によって買い占められたといいます。