薬剤師になるよう言われたことも言ったこともない

昭和21年、軍人で薬剤師だった夫と結婚。ヒルマ薬局は池袋で営業を再開した(現在の本店)。池袋駅周囲はバラックが立ち並ぶ闇市。榮子さんは、焼野原のいったいどこからこんなに人がわいてくるのか不思議に思った。

孫の康二郎さんと小豆沢店をきりもりする。
孫の康二郎さんと小豆沢店をきりもりする。(撮影=市来朋久)

やがて子供も生まれ、長男は両親と同じく薬剤師の道へ進み、やはり薬剤師の妻と結婚する。一族がこぞって薬剤師という格好だが、榮子さんは長男に「薬剤師になれ」と言った覚えは一度もなく、榮子さん自身も、父から「薬剤師になれ」と言われたことは一度もなかったという。

「お店を継げとかなんとか、一切言ったことはありませんでした。人が自分の思った通りに動かないと気が済まなくなるものですけれど、うちは自然とこうなってきているんです。さっきあなたがおっしゃったみたいに、子供を変えたいなんて思ってる人は、きっと自分がしっかりしてて、自分は何でもわかってる人間だなんて思っているんじゃないかしら(笑)」

相談業務に力を入れる

子や孫に無理強いすることなく、しかし、家業をうまく継承していく。そこには榮子さんの類いまれなるコミュニケーション能力が働いているに違いないと再び決めつけたくなってしまうが、実は、ヒルマ薬局のように歴史の古い薬局にとって、コミュニケーション能力は必須のものだったらしい。

お店にはギネス認定証が飾られていた。
お店にはギネス認定証が飾られていた。(撮影=市来朋久)

「戦後、厚生省の薬剤部が薬局製剤っていうのを許可したのね(昭和33年)。当時はよほどじゃないと医者にはかからなかったから、ちょっとした病気、風邪をひいて頭が痛いとか、熱が出たとか、咳がひどいとか、そういう場合は薬局で薬剤師が患者さんの話を聞いて、それに合わせて薬を処方したんです。感冒1号、感冒2号なんていってね。それでも治らなかったら、お医者さんに行きなさいって言ったんです」

この薬局製剤という制度、現在でも機能している。医師に代わって薬剤師がプレ診察を行うようなもので、自然、客との関係も深くなる。ヒルマ薬局は「医食導援」をキャッチフレーズに現在も相談業務に力を入れているが、この伝統は薬局製剤に由来するのかもしれない。

「お客様全員とお話しするわけじゃないけれど、人によっては相談をします。先日もあなた方みたいに取材に来た人が、実は血圧が高くて医者に薬を出してもらったけれど、勝手に飲むのをやめてしまったって言うから、突然、バッタリ倒れるのはそういう人ですよ、もう一度病院に行ってしっかり話を聞いていらっしゃいって言ったら、また改めてうかがわせてくださいって(笑)。やっぱり心配になったんじゃないですか」

お客さんの中にちょっとしたヒラメキを

言うべきことははっきりと言う。命にかかわる仕事をする者としては、当然のポリシーだろう。しかし、どこまで相手の心の中に踏み込むかについて、榮子さんはとても慎重だ。たとえば、来店者の中には不治の病を抱えた人もいる。

「大変ですねなんて、ひとごとのようには言いません。その人の身になって考えてみて、生きている意味とか命の価値なんて深刻に考えなくていいのよ、それよりこんなふうにしてみたらいいんじゃないかなって言ってみて、ああ、そんな考え方もあるんですねって、ちょっとしたヒラメキがお客さんの中に見えたら、それでいいと思っているんです」

絶望の底にいる人にヒラメキを持ってもらうには、病気と薬に関する幅広い知識と、相手の心の動きに対する鋭敏さが必要だろう。

「でも私、あまり深入りはしないんです。『ちょっとしたおせっかい』くらいにとどめていますね。自分のことは自分が一番わかっているでしょ。提案をしてみて、でもあとはご本人次第。そんなふうに考えています」

(後編に続く)

山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター

1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。