東京・板橋区にあるヒルマ薬局小豆沢店。そこには、時に1時間以上雑談をしていくお客も来るという。雑談の相手は薬剤師一筋75年以上になる98歳だ。連載「Over80『50年働いてきました』」第3回は、世界最高齢の薬剤師、比留間榮子さん――。

一風変わった薬局の“看板娘”

地下鉄都営三田線の志村坂上駅を出て徒歩1分、板橋中央病院の斜め向かいに一風変わった薬局がある。ヒルマ薬局小豆沢店。小豆沢と書いて、アズサワと読む。

都営三田線の始点は目黒駅であり、目黒駅から数駅の間に白金台、白金高輪、三田といった駅名が並ぶ。なんとなく、リッチな感じである。

一方、終点は西高島平駅であり、終点手前の2駅は新高島平と高島平。高島平はヒルマ薬局のある志村坂上から4駅目だ。高島平駅周辺には総戸数1万戸を誇る高島平団地があり、新高島平から西高島平にかけては巨大な市場や倉庫群が広がっている。

ちなみに、高島平団地の入居が始まったのは1972年(昭和47年)のこと。当時は若年の中間所得層に人気が高かったが、現在は第一世代の高齢化が進み、老人の独居や少子化が問題になっているという。

ヒルマ薬局小豆沢店の店頭。年齢問わず多くのお客が出入りする。
撮影=市来朋久
ヒルマ薬局小豆沢店の店頭。年齢問わず多くのお客が出入りする。

さて、ヒルマ薬局の何が一風変わっているかといえば、まずは、店の入り口に暖簾がかかっていることだ。無機質なドラッグストア隆盛の時代に暖簾は珍しいが、これはヒルマ薬局が「相談」を重視する薬局であることと無縁ではないだろう。暖簾には内と外を緩やかに区切る温かさがあり、周囲に処方箋薬局がたくさんあるというのに、ヒルマ薬局の暖簾をかき分けて入ってくる客が引きも切らない。

もうひとつの特徴は、世界最高齢の現役薬剤師としてギネスブックに載った比留間榮子さんが店のカウンターに立って、薬の受け渡しをしてくれることである。御年、98歳。「榮子先生」と慕う客も多く、文字通りの看板娘として活躍をしているのである。

榮子さんはなぜ75年以上もの長きにわたって店頭に立ち続け、人は何を求めてこの薬局にやってくるのだろうか。

薬剤師一筋75年「ただそれだけ」

「私は薬剤師ひと筋でね、ただそれだけですよ。振り返ってみるとあっという間だったけれど、戦争に始まって戦争に終わったような時代で、どうにか仕事をやってこられたのが夢みたいだわね」

比留間榮子さん。いつもここでお客さんの相談に応じる。
撮影=市来朋久
比留間榮子さん。いつもここでお客さんの相談に応じる。

榮子さんは、いつものカウンターの中から淡々と語り始めた。小柄だが、声に芯の強さが感じられる。2年前に股関節を骨折して2年ほど店を休んでいたが、自宅でゴロゴロしているとかえって疲れてしまうという。

「だから働けることは幸せだと思って、休んでる間もずっと働きたいと思っていたの」

約半年間の入院生活も経験した。店に出ている時は1日ひと缶を日課にしていたお疲れ様ビールも、入院中はもちろん飲めない。

「入院中はビールのことなんか全然頭になかったの。飲みたいとも思わなかった。で、家に帰ってきてなんの気なしに冷蔵庫を開けたら、うちは私以外誰も飲まないから、半年前のままビールが置いてあって……」

一緒に店を切り盛りしている孫の康二郎さんによれば、退院直後は「ビールの味がしない」とボヤいていたが、店に出るようになったらおいしいと言うようになったとか。きっと、根っから働くことが好きなのだ。ひと仕事終えた後のビールがうまいとうなる98歳は、やはりギネスものだろう。

「あら、味がしないなんて言ってませんよ」

父の姿を見て薬剤師に

榮子さんが父の創業した薬局で仕事を始めたのは昭和19年だから、ぎりぎり戦前ということになる。東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)を卒業してすぐ、店頭に立つようになった。

戦後、東京薬専は新制大学に昇格するが、戦前、大学に相当する学校に進学する女性は少なかった。薬学を教える学校自体も少なく、東京薬専には全国から薬剤師を志す女性が集まっていた。

「沖縄から樺太まで、それこそ全国から同級生が集まっていたわね。薬剤師になろうと思ったのは、高等女学校に入ってからかな。父が一所懸命にやってる姿を見て、だんだんそういう気持ちになっていったんだと思います」

戦争に始まって戦争に終わった青春時代

冒頭の言葉の通り、榮子さんの青春時代は「戦争に始まって戦争に終わった」と言っても過言ではない。高等女学校に入学した翌年の1937年(昭和12年)、盧溝橋事件が勃発して日中戦争が始まる。そして1941年(昭和16年)、東京薬専に入学した年の12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃して、いわゆる太平洋戦争が始まった。

比留間榮子さん
撮影=市来朋久

「中国で戦争が始まっても国内では弾の音ひとつしなかったし、北京陥落、上海陥落、南京陥落なんて情報ばっかりでした。ちょうちん行列、旗行列、花電車が通って、みんな万歳、万歳って騒いでいましたね。昭和19年の終わりごろからB29がしじゅう日本の空を偵察に来るようになって、私、19年に薬専を卒業したんですが、空襲警報のサイレンが鳴って大変な騒ぎでした」

東京が本格的な空襲に見舞われたのは、翌、昭和20年の3月10日であり、以降、4月13日、15日、5月24日、25~26日と5回にわたる大規模な空襲を受けて、市街地の半分以上が灰燼に帰した。榮子さんは、10万人以上の死者を出した3月10日の「下町空襲」のわずか2日前に、父の郷里である長野に疎開している。

「信州に着いて、夜、何気なく空を見ていたら東の方が真っ赤だったんです。東京と長野はずいぶん距離があるから、まさか東京が燃えているとは思いませんでした。なんで空の色があんなにきれいなんだろうと思って……。それから何カ月かして、日本は負けたんです」

池袋から海が見えた

薬局を再開するため父とともに東京へ戻ってきたのは、敗戦の2年後だった。

>比留間榮子『時間はくすり』(サンマーク出版)
比留間榮子『時間はくすり』(サンマーク出版)には、榮子さんが大切にしている人生のポリシーがつづられる。

「東日本大震災のときは、がれきがすごかったでしょう。でも、東京は焼夷弾できれいに焼けてしまったんで、震災みたいながれきはあまり残っていませんでした。嘘みたいな本当の話なんだけど、池袋から海が見えたんですよ。焼け残ったコンクリートのビルがちょんちょんと建っていましたけれど、水平線が見えたんです」

榮子さんは、戦争を通して命の尊さを知った。だから、人の命を守る薬剤師という仕事を、命がけで続けてきたのではないか?

「戦争と命ですか……。焼夷弾が落ちてくれば、その時は怖いも何もなくてね、大勢の人が波のようにバラバラと逃げていくその後を、ただついて行くだけでした。とにかく、戦争ほど重大な出来事はないというのが一番のことですよ」

戦争経験と人命を守る仕事への執念を結びつけたいと思ったが、榮子さんはそんな短絡には乗ってくれなかった。

薬剤師になるよう言われたことも言ったこともない

昭和21年、軍人で薬剤師だった夫と結婚。ヒルマ薬局は池袋で営業を再開した(現在の本店)。池袋駅周囲はバラックが立ち並ぶ闇市。榮子さんは、焼野原のいったいどこからこんなに人がわいてくるのか不思議に思った。

孫の康二郎さんと小豆沢店をきりもりする。
孫の康二郎さんと小豆沢店をきりもりする。(撮影=市来朋久)

やがて子供も生まれ、長男は両親と同じく薬剤師の道へ進み、やはり薬剤師の妻と結婚する。一族がこぞって薬剤師という格好だが、榮子さんは長男に「薬剤師になれ」と言った覚えは一度もなく、榮子さん自身も、父から「薬剤師になれ」と言われたことは一度もなかったという。

「お店を継げとかなんとか、一切言ったことはありませんでした。人が自分の思った通りに動かないと気が済まなくなるものですけれど、うちは自然とこうなってきているんです。さっきあなたがおっしゃったみたいに、子供を変えたいなんて思ってる人は、きっと自分がしっかりしてて、自分は何でもわかってる人間だなんて思っているんじゃないかしら(笑)」

相談業務に力を入れる

子や孫に無理強いすることなく、しかし、家業をうまく継承していく。そこには榮子さんの類いまれなるコミュニケーション能力が働いているに違いないと再び決めつけたくなってしまうが、実は、ヒルマ薬局のように歴史の古い薬局にとって、コミュニケーション能力は必須のものだったらしい。

お店にはギネス認定証が飾られていた。
お店にはギネス認定証が飾られていた。(撮影=市来朋久)

「戦後、厚生省の薬剤部が薬局製剤っていうのを許可したのね(昭和33年)。当時はよほどじゃないと医者にはかからなかったから、ちょっとした病気、風邪をひいて頭が痛いとか、熱が出たとか、咳がひどいとか、そういう場合は薬局で薬剤師が患者さんの話を聞いて、それに合わせて薬を処方したんです。感冒1号、感冒2号なんていってね。それでも治らなかったら、お医者さんに行きなさいって言ったんです」

この薬局製剤という制度、現在でも機能している。医師に代わって薬剤師がプレ診察を行うようなもので、自然、客との関係も深くなる。ヒルマ薬局は「医食導援」をキャッチフレーズに現在も相談業務に力を入れているが、この伝統は薬局製剤に由来するのかもしれない。

「お客様全員とお話しするわけじゃないけれど、人によっては相談をします。先日もあなた方みたいに取材に来た人が、実は血圧が高くて医者に薬を出してもらったけれど、勝手に飲むのをやめてしまったって言うから、突然、バッタリ倒れるのはそういう人ですよ、もう一度病院に行ってしっかり話を聞いていらっしゃいって言ったら、また改めてうかがわせてくださいって(笑)。やっぱり心配になったんじゃないですか」

お客さんの中にちょっとしたヒラメキを

言うべきことははっきりと言う。命にかかわる仕事をする者としては、当然のポリシーだろう。しかし、どこまで相手の心の中に踏み込むかについて、榮子さんはとても慎重だ。たとえば、来店者の中には不治の病を抱えた人もいる。

「大変ですねなんて、ひとごとのようには言いません。その人の身になって考えてみて、生きている意味とか命の価値なんて深刻に考えなくていいのよ、それよりこんなふうにしてみたらいいんじゃないかなって言ってみて、ああ、そんな考え方もあるんですねって、ちょっとしたヒラメキがお客さんの中に見えたら、それでいいと思っているんです」

絶望の底にいる人にヒラメキを持ってもらうには、病気と薬に関する幅広い知識と、相手の心の動きに対する鋭敏さが必要だろう。

「でも私、あまり深入りはしないんです。『ちょっとしたおせっかい』くらいにとどめていますね。自分のことは自分が一番わかっているでしょ。提案をしてみて、でもあとはご本人次第。そんなふうに考えています」

(後編に続く)