孤独死は「かわいそうな死」なのか。精神科医でブロガーの熊代亨氏は「今起きている孤独死の大半は悲劇的であり、喪失や脅威と言える。だが、テクノロジーによって孤独死を不幸ではないものに変えることができるはずだ」という――。

「孤独死」が増え続けている

独り暮らしの人が誰にも看取られることなく死去する、いわゆる孤独死(または孤立死)が、右肩上がりに増えている。

日本全国の孤独死を網羅した統計資料は無いが、たとえば内閣府の「平成29年版高齢社会白書」によれば、「東京23区内における一人暮らしで65歳以上の人の自宅での死亡者数」は平成10年代から倍増し、年間3000人を上回るに至っている(図表1)。病院や施設での死が一般的な今日では、独居者の自宅での死の多くは孤独死であろう。

【図表1】東京23区内における一人暮らしで65歳以上の人の自宅での死亡者数
出所=平成29年版高齢社会白書、内閣府より

一般に、孤独死は悲劇として描かれる。「誰にも顧みられずに死んだ人は気の毒だ」「その実態は緩慢な自殺やセルフネグレクトだ」、といった具合にだ。最近は、新型コロナウイルス感染症によって自宅待機を迫られ、その結果として孤独死する事例もある。この、パンデミックに関連した孤独死は本論のカバーするところではないが、これもまた悲劇には違いない。

また、孤独死は経済的損失や脅威といった観点から語られる。孤独死が起こった住居は事故物件とみなされ不動産価値が下がり、遺族も大きな負担を強いられる。異臭騒ぎなどによって、近隣の生活が脅かされることも多い。

孤独死は日本人が望んできたゴールではないのか

こうしたことから、平成から令和にかけ、孤独死は専ら「防止しなければならないこと」とみなされ、孤独死する本人は「かわいそうな人、気の毒な人」として語られてきた。

そうした語りを筆者は否定するつもりはない。現に今起こっている孤独死の大半は悲劇であり、損失や脅威でもあるのだから。

しかし「孤独死を絶対防止する」という目標設定は、私には奇妙に思える。

なぜなら、昭和から令和にかけてこのかた、私たちはバラバラに暮らすことを望み、お互いにしがらみの少ない生活を目指してきたからだ。好きな人とだけ付き合う自由、または嫌いな人と疎遠になる自由を実現してきた日本人にとって、孤独死とは、選択したライフスタイルにふさわしいゴールではなかったか。

バラバラに暮らし、しがらみを避けあってきた私たちが、臨終だけは誰かに囲まれていたいと願うのは、虫の良い話である。それに、しがらみの少ないライフスタイルを貫徹するという意味では、一人で死ぬという結末はゴール設定としてそれほどおかしなものではない。

「楽に死ねて経済的損失や迷惑を避けられるなら、独りで生きて独りで死にたい」という人も、意外と少なくないのではないだろうか。

この文章では、はじめに悲劇や損失や脅威としての孤独死を振り返ったうえで、独りで生きて独りで死にたい人のあるべき孤独死の可能性について、テクノロジーの進展を意識しながら展望してみる。