「これさえできればいい」と思えるものがあるか

賃金労働は収入が発生する意味で合理的な時間潰しである。自分で自分のしたいことを見つけることができない受動的な人間にとっては便利な時間潰しでもある。収入を保証する時間潰しであり、かつ学習機会でもあった賃金労働は、人類にとっては呪いであると同時に恩寵おんちょうでもあった。

藤森かよこ『馬鹿ブス貧乏な私たちを待つろくでもない近未来を迎え撃つために書いたので読んでください。』(KKベストセラーズ)
藤森かよこ『馬鹿ブス貧乏な私たちを待つろくでもない近未来を迎え撃つために書いたので読んでください。』(KKベストセラーズ)

しかし、その呪いから解放される可能性が出てきたが、賃金労働の恩寵性も消えるのだ。そうなると、したいことを見つけることができない人間=自分という資源の活用方法がわからない人間=報酬の多寡たかや他人の是認ぜにんの多さを基準に職を選んでいた人間にとっては、することがなくなる。既成の時間潰し方法で誤魔化すには、人生という時は長過ぎる。

だから、これからの人々は、ほんとうに自分自身を吟味しなければならない。自分が寝食を忘れて夢中になれるものがあるのか? これだけのことさえできればいいと断言できるような「これだけのこと」が自分にはあるのか?

昨今は、出版不況と呼ばれる。本が売れない時代だといわれる。本が読まれない時代だといわれる。しかし、どうしても出版事業に従事したい人間もいれば、どうしても書いて発表したい人間もいるし、どうしても読みたい人間もいるので、出版事業そのものが消えることはない。

あなたには、そういうものがありますか? 「これさえできれば、他のことは実現しなくても、まあいいや……」と思えるようなことが。無心で好きになれることが。

藤森 かよこ(ふじもり・かよこ)
福山市立大学名誉教授

1953年、愛知県生まれ。南山大学大学院文学研究科英米文学専攻博士課程満期退学。元桃山学院大学教授、福山市立大学名誉教授。アイン・ランド研究の第一人者で、訳書に小説『水源』、政治思想エッセイ集『利己主義という気概』。