無になって、ただ線をなぞる

「それは、“きれいに描くこと=出来がいい=点数が高い”といった固定観念に縛られてしまっている状態です。これにとらわれすぎると、本来の自分を見失って生きるのが辛くなります。写仏の目的は、上手に描くことではなく、無になって、ただ線をなぞることです」

1つのことに専念することが目的なので、極論、写すものは仏の絵でなくてもいいそうだ。

なぞりながら別のことが頭に浮かんでしまうことに関しては、そもそもキャパシティーを超えてしまっているので、抱えるものの数を減らしたほうがいいそうだが、「写仏中は浮かんできても深く考えず、なぞることに意識を集中させます。1つのことを丁寧に突き詰めることによって、人は本来の力を発揮できますから。ご自宅でも写仏を行って、無心になる時間をつくるといいですよ」。

1つずつ、丁寧に。“こうあらねば”に縛られず、ときには知識を捨てて自由にすごす。それにより価値基準が増え、生きることが楽になる。住職の言葉がずっしりに落ちた。

この旅でもう1つやりたかったこと、それは鶴岡市にある羽黒山はぐろさんにお参りし、「精進料理を食べる」ことだ。

羽黒山は、月山がっさん湯殿山ゆどのさんと合わせて出羽三山でわさんざんと呼ばれる山岳信仰の地。それぞれ現在、過去、未来を表す山とされていて、江戸時代に三山を巡る「生まれ変わりの旅」が庶民の間で広まった。月山と湯殿山は冬季入山禁止のため、羽黒山に三山の三神を合祀ごうしする「三神合祭さんじんごうさい殿」がある。

神様やご先祖様に感謝をささげる朝の神事

精進料理は出羽三山で採れた食材を用いて、羽黒山 斎館さいかんで手作りされている。山伏たちが山中の植物を食していたことから始まった羽黒山の精進料理は、現在は参拝者も味わえる「おもてなし料理」に変化した。メニューに魚が入っているのは、参拝後に食すため、「精進落とし」の意味合いがあるそうだ。みそやしょうゆの味付けは、濃すぎることなく、食材の味を際立たせている。精進料理がここまで美味しいと思っていなかったので驚いた。

「生で食べられないとされていたものも食べられるように試行錯誤して生み出されたのが、精進料理です。自然の恵みをいただくことに対して、『もったいない』という気持ちがなければ生まれなかったでしょう。食材は泥や汚れを落とし、ゆでてあくをとったり、天日干ししたり、数週間塩漬けにするものもあります。手間暇を惜しまないこと、そこにも『精進』の精神があるのです」と料理長の伊藤新吉さん。

寺社で有り難いお話を聞き、豊かな自然に触れて、1日ごとに心が軽くなっていく。たまにはスマートフォンの電源を切ってみようか、そう感じた庄内の旅だった。

庄内の自然に囲まれ感性をとりもどす

撮影=望月 研