4カ国語を使いこなすエリートが一般職に
UCLで言語学を学んでいた山本さんは、大学卒業後に自分が何をやりたいかわからない中、取扱商品が多いという理由から98年に総合商社の日商岩井(現双日)を就職先に選んだ。化学部門に配属され、貿易事務の仕事を任されたが「あのときは人生で一番忙しかった」というほど過酷だったという。
しかも、4カ国語を使いこなすエリート大卒の山本さんでも、女性は「一般職」でしか枠がなかった。“男性が取ってきた仕事をさばくのが女性の仕事”というのが当然だったからだ。
3年後、「世の中の経済の仕事を見てみたい」と転職。UBS証券で証券外務員の一種を取って、デリバティブの販売に携わり、語学力を買われて英国に海外勤務となった。その後、社内結婚し、退職して米国・ニューヨークで暮らすことになった。
一方、高橋さんはUCLでは哲学を専攻。海外の哲学部出身者はマスメディアに就職する傾向があり、学生時代は日本の民放のロンドン支局でアルバイトをしていたという。卒業後は、米国・20世紀フォックス(現20世紀スタジオ)に就職し、CFOのアシスタントや社長秘書の仕事などを経験。3年後にドイツのラグジュアリーアパレルブランド・ヒューゴ・ボスに転職し、ドイツで通訳兼社長秘書として活躍した。
美容オタクだった山本さんは“美容家”として活躍していた。ニューヨークで美容学校に通い、“美容を極めたい”と英国のディプロマの資格も得て、書籍の出版と同時に、化粧品を作りたいと2009年3月に起業した。
起業するも、クレジットカードの審査も通らず
起業したのは、高橋さんの子供が1歳半になったころ、山本さんの子供が5歳のころだった。創業準備は夜型の高橋さんと朝型の山本さんがリレー方式で夜な夜な仕事をし続けた。「まるで眠らない会社でした」と二人で思い出して笑う。経営についてはまったくわからず、「暗闇の中を模索するような時期でした」(山本さん)。
第1の危機が訪れたのは、創業して1年後。山本さんが8年間の結婚生活にピリオドを打ち、シングルマザーとなったことだった。
山本さんは当時を振り返り、「クレジットカードの審査すら通らなくなり、専業主婦の経験は社会では認められないのかと痛感しました」と話す。
高橋さんはそんな相棒の姿に、「本当に事業を成功させなくては。会社だけでなく、私は山本の人生も背負っている」と火が付いたという。
二人は1年間無給で働き、事業の成功のために身を削った。
仲良しの二人だったが、時には激しいけんかもした。大学時代から周囲には「一緒に起業をする」と伝えていたが、「友人同士の起業はうまくいかないからやめたほうがいいよ」とアドバイスを受けることも多かった。
二人は、むしろその言葉に奮い立った。「『親友同士で立ち上げた会社でも成功する』というパターンを私たちが作ろう」と考えた。「これもイノベーションですよね!」と山本さんは笑う。似ていない二人が互いの短所を補い合って一つのものを作っていくのだから、成功しないはずがないと二人は前向きに捉えていたのだった。