母が認知症に。父が余命一年と宣告を受ける

秋葉原のランドマークとなった「東京タイムズタワー」をはじめ、都心の超高層タワーマンションを手がけ、その後は八王子や伊勢崎のショッピングモールなど商業施設の設計を担当するようになった。

設計から建物竣工まで、大規模な事業では2、3年以上のスパンで取り組むことになる。体力勝負のハードな現場を数々乗り越えてきたが、やがて思いがけない困難が待ち受けていた。親の介護に直面し、一時は異動も覚悟したという。

母親が認知症とわかったのは2008年、総合職に転じて5年ほど経ったころ。認知症になると記憶障害があらわれて、新しいことが覚えにくくなる。料理などの家事や日常のことが少しずつできなくなっていき、本人もとまどいや不安を抱えこんでしまう。母にもそうした症状が徐々に出てくるなか、千葉の実家で父親が付ききりで看ていた。東京都内で一人暮らしをしていた長塚さんも週末には必ず帰るようにしていたが、ついに実家へ戻らざるをえなくなったのだ。

認知症の母を看ていた父が末期がんを患い、「余命一年」と宣告される。それを機に実家に戻り、両親の介護を尽くそうと決めた。

「実家からは通勤に片道一時間半ほどかかるので、どんなに遅くても夕方6時半には退社しなければいけません。そのため上司に相談し、現場を持たないフェーズの仕事を担当させてもらうことに。さらに、なるべく残業が少ない業務になるような配慮もしてもらえました。ただ、自分も周りに負い目があって、途中でいろいろ考えた末に他の部署への異動を打診しました。ですが、その時の上司に『一度異動してしまうと、介護が終わったときに同じ席に戻りたいと言っても、うまく戻れるかどうかわからない。このまま続けた方がいいのではないか』とアドバイスをいただいて、同じ部署に残らせてもらうことになりました」

母親が要介護になってからは地域のケアマネジャーに相談し、いろいろな介護保険サービスの利用を検討した。だが、気丈な母は他人の世話になることを受けつけず、訪問介護を受けるのも嫌がってしまう。持病があってインシュリン注射などの医療的ケアも欠かせなかったので、日中は父に任せ、同居する弟と協力しながら、家族だけで母を看ていた。

介護と仕事をどのように両立していくか? 試行錯誤の日々

しかし、末期がんを告知された父の容態は刻々と悪くなっていき、翌年には帰らぬ人となった。その悲しみも癒えぬまま、弟と二人で母の介護に追われていく。さすがに付ききりではいられないため、昼間はデイサービスの施設へ通ってもらい、朝晩はホームヘルパーさんも頼み、なんとか在宅介護を続けた。それは精神的にもいちばん辛い時期だった、と長塚さんは洩らす。

「周りで同年代の人たちはご両親もお元気なので、あまり相談できないし、ひとり手探りでやっていたのが辛かったですね。仕事の段取りをしても、母の具合が悪くなったり、突発的な出来事が起きてしまったりするので、自分のスケジュール通りには決して進まない。介護の場合はどう変化していくのか先も見えないので、気持ちが後ろ向きになりがちで……」

会社でも介護休暇制度はあったが、母の介護がいつまで続くか予想もつかず、使うタイミングを計りかねていた。そんな状況のなかでいかに仕事と両立していくか。長塚さんは弟と相談して、一週間ごとにお互いのスケジュールを確認し、「○曜日は30分残業できる」などと調整していく。仕事だけでなく、それぞれ自由に過ごせる休日をつくり、息抜きできる場を持つよう心がけた。時間の使い方もより考えるようになったという。

「職場で、今までは自分が任されたことをがむしゃらにやっていれば良かったけれど、介護を始めてからは周りの協力がないと続けられなかったと思います。限られた時間の中で効率よく進めていくには、どうしてもお願いしなければいけないことが生まれる。だから、一人で抱え込まず上司に相談し、周りにもオープンに話していました」