最高峰のジュエラー、伝統と革新のカルティエ

1847年、まだ20代だったルイ=フランソワ・カルティエが、自身の師である宝石職人アドルフ・ピカールからパリのアトリエを受け継いだことから、カルティエの壮大な歴史は幕を開ける。王侯貴族や富裕層が行き交うエリアに店を移転させながら、著名な顧客を増やし、メゾンは世界的ジュエラーへの道を順調に進んでいった。

2代目当主アルフレッド・カルティエ(右から2番目)とその息子たち。Cartier Archives © Cartier
2代目当主アルフレッド・カルティエ(右から2番目)とその息子たち。Cartier Archives © Cartier

すでに揺るぎない地位を確立していたカルティエだったが、その名をさらに知らしめたのは、当時社交界の中心人物といわれていたナポレオン3世の妃、ユゥジェニー皇后からの直々のオーダーだったという。この出来事をきっかけにカルティエの評判は王侯貴族にあまねく広まり、王族御用達ブランドの名をほしいままにした。

カルティエに大きな転機が訪れたのは1904年。創業者のルイ=フランソワ・カルティエ亡き後、3代目当主のルイ・カルティエが友人の飛行家アルベルト・サントス=デュモンのために、飛行中でも使用できる時計を製作する。これが世界初の男性用の実用的な腕時計「サントス」の誕生だ。ほかにもカルティエはトップメゾンとしてジュエリーの台座に初めてプラチナを使用したり、バゲットカットのダイヤモンドをデザインしたりと、時を経るごとに数々の世界初を生み出したのである。