「子どもの自立は親の責任」という強い意識

平成の時代が始まるころを思い出してみると「親自身が我が子を虐待するなど信じられない。日本において虐待は大きな問題ではない」と感じる人が少なくなかった。児童虐待防止法ができたのは2000年のことである。

同じ2000年には公的介護保険の制度が開始された。子育てと同じく、家庭内の問題と思われた介護を公的なサービスで支えていこうという仕組みである。平成が始まったころの常識は、30年のあいだに塗り替えられつつある。

8050問題のような老親と子どもとの関係は、こうした変化から取り残された領域の1つなのではないだろうか。戦後型家族を理想の家族モデルにしながら子育てをしてきた世代は、子育て支援や若者の就労支援が本格化するよりもずっと以前に親となった。そのために「子どもの自立は親の責任」という意識から逃れることが難しい。親の介護を施設に頼ることや、熟年離婚などが一般化したのに比べ、子どもに責任をもち、愛情を注ぐことは家族のなかで最後に残された聖域ともいえる。

こうして限界まで親子だけでがまんを重ね、体力や経済力を使い果たした末に共倒れする家族が現れる。個々の限界家族を救うとともに、社会のなかで限界を迎えた家族像を考え直すべき時期が来ているのではないだろうか。

子どもに「お金の話」をしてはいけないのか

先進国で生活する若者は、基本的に衣食住には不自由しないと考えられている。しかし、実際に基本的な生活条件を確保しているのは親であることが多い。昭和の高度経済成長期以降の家族では、父親の経済力によって家族の生活が守られる。「生活給」といわれるように、妻子を養うために必要な賃金を、父親が属する企業などから保障された。そのために、家族のなかにいる女性や若者は、たとえ経済力が十分でなくても「貧困」と評価されることはない。

ひきこもる子をもつ家族に対して、「本人にお金や家計の話をするべきではない」という助言がされることもある。経済のことを考えるよりも、本人は教育を受けて自立するべきだというのが、昭和以降の家族観を前提にした考え方である。現代の豊かな若者は、経済的な動機で動かされることはないので、他人から認められる機会を用意するなどのかたちで「承認欲求」に働きかけるべきだとの意見も聞かれる。しかし、それは親元での生活を前提とした議論といえる。それに対して、家族に全面的に依存しない生活を視野に入れた支援を考える必要があるのではないだろうか。