大学卒業後、私は公認会計士を目指して東京・水道橋にある専門学校に通った。電卓片手にテキストや問題集に向き合う毎日で、定期的な収入はまったくなかった。それゆえ、ポケットに入っているお金といえば、小銭ばかり。当然、レストランで贅沢するわけにはいかず、立ち食いソバ屋に自然と足が向いた。

そんな私がよく暖簾をくぐったのが、学校から歩いて5分ほどのところにある神田・古本屋街の小さな店だ。鰻の寝床のような店構えで、7、8人が並ぶといっぱいのカウンターの向こうでは、60代の頑固そうなオヤジさんが1人で黙々とソバを茹でていた。学生街でもあり、昼時になると、いつも店の外には5、6人の客が待っていた。

そんな人気の秘密は、こしの強いソバもさることながら、揚げ立てのさくさくした天ぷらが食べられることにあった。種類は定番のかき揚げに、春菊、ニンジン、タマネギ、そして私が大好きだった竹輪の5つほど。目の前で揚げられたばかりの天ぷらは香ばしく、箸を口元に運びながら、「よその店にはいけないな」と1人で勝手にうなずいたものだ。

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もちろん、前回お話しした「店舗面積」「客のキャパ」「1人当たりの在店時間」の3つのポイントで見ても、繁盛店であることは一目瞭然だった。しかし、このお店には繁盛店をさらに繁盛させる“絶妙な仕掛け”が2つもあったのだ。

1つ目は、店の外の客に、あらかじめ注文を聞いていたことである。オヤジさんは、ソバをすすっている目の前の客があとどのくらいで食べ終わるかがわかる。「あと、2分くらいだな」と見計らったとたん、ネタに衣をつけて天ぷら鍋に入れる。だから、私がカウンターに並ぶやいなや、「へい、お待ち。竹輪天ソバね」と湯気を立てた丼が目の前に現れる。

お客は、店に入ってすぐに食べられるとわかっていれば、たとえ外で少々待たされても我慢できる。まして、揚げ立ての天ぷらが出てくるのだから、文句のつけようもない。逆にオヤジさんからしてみると、注文を受けてから作るので、売れ残りを捨てる心配をしなくてすむ。確実に、材料を売り上げにつなげていけるシステムだったのだ。

もう1つは、メニューを絞り込んでいること。もし、天ぷらの種類を増やそうとしたら、材料も増やす必要が出てくる。シイタケ、ナス、ゴボウ、エビ、イカにキス……。確かにバラエティー豊かになって、客は喜んでくれそうだ。

しかし、1日に入るお客の数には限りがあり、すべて満遍なく売れる保証はどこにもない。どれをどのくらい仕入れるか、見極めが難しくなる。なかには材料のまま古くなり、使えなくなるものも出てこよう。それならば、少ない材料をうまく使い回したほうがいい。ニンジンやタマネギなら、単品でもいけるし、かき揚げにも組み合わせられる。ムダにして、材料を捨てることもなくなるのだ。

オヤジさんの仕掛けを会計学的に解説すると、1つ目が「リードタイムの短縮」になる。製造ライン上の商品になる前の半完成品は、そのままでは売り物にならない。つまり、材料から商品にするまでのリードタイムが短いほど資金効率はよくなる。もう1つが「在庫回転率の向上」だ。在庫として持っている材料を死蔵したり廃棄することは、投下した資金をムダにするのと同じことなのである。

このリードタイムの短縮と在庫回転率の向上を目指したものがトヨタ自動車の「カンバン方式」だ。オヤジさんがそのことを知っていたかどうかは、店がなくなったいまとなっては確かめようもない。しかし、オヤジさんのことを、いまでも私は「立ち食いソバ屋の大野耐一」と秘かに尊敬している。

(伊藤博之=構成 ライヴ・アート=図版作成)