東京ガスの設計道調課で係長を務める小島恵美子さん。「設計をやってみないか」と上司に誘われて踏み出した道は、けっして平らではなかった。仕事と家庭の両立で苦悩した日々を、彼女はどう乗り越えたのか――。
「ガス屋」という社会的役割を理解してくれた2人の息子
2011年、東日本大震災があった日のことだ。当時、東京ガスの千葉導管ネットワークセンターで働いていた小島恵美子さんは、災害対応の業務に追われ、2人の息子の待つ自宅に連絡することができなかった。
彼女の部署はガス管の設計や維持・管理を担当しており、大きな災害があれば徹夜で復旧作業に当たる責務がある。同じ東京ガスで働く夫も同様で、この日は中学生と高校生の息子たちに家のことを頼むしかなかった。
彼女がいまでも思い出して胸を詰まらすのは、事情を知る友人が息子に電話をかけたときの、長男の受け答えだ。
「お父さんとお母さん、今日は帰れないと思うけれど大丈夫?」
「うん。ガス屋だから仕方ないよ」
このときほど、子どもたちの成長を、心から実感したことはない。ときどき両親に反抗する年頃ではあるけれど、自分たちの仕事の社会的な役割を、彼らは理解してくれていたのだ。「ガス屋」という親しみと誇りのこもった言葉にその思いを感じ、息子たちが急に頼もしく感じられたものだった。
小島さんが東京ガスに入社したのは1988年。短大を卒業後、事務職として千葉支社や東京の葛飾支社に勤務し、料金の管理やガス乾燥機「乾太くん」の販売企画を担当した。
大きな転機となったのは、実家のある千葉県の職場へ戻り、次男を出産してからのことだ。あるとき上司に呼ばれ、「設計の仕事もしてみないか?」と言われたのである。それは意外な提案だった。当時、設計担当に事務職の女性が就くことは稀(まれ)だったからだ。