三姉妹の長女・茶々は自分をエサに?

茶々は浅井長政とお市の方の長女ということになっている。浅井長政とお市の方の婚姻時期は複数の説があり、茶々の生年も複数の説があって確かなことはわからない。次女の名前が「初」なので、茶々を庶腹とする一案もあるが、関ヶ原の合戦後に織田家の人びとが大坂城に出入りしていたことを考えると、事実関係は別としてお市の方の子と認識されていたようだ。

伝・淀殿(茶々)の肖像画
伝・淀殿(茶々)の肖像画(画像=奈良県立美術館収蔵「伝 淀殿画像」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

天正元(1573)年9月に浅井長政が織田信長によって討たれた際、母と妹とともに城から逃げ落ち、織田一族のもとで庇護された。天正11(1583)年4月、賤ヶ岳の合戦後に母は自害。妹とともに秀吉のもとに護送された。その後は叔父の織田長益(有楽斎)、もしくは従姉妹の松の丸殿・龍子に預けられたらしい。

 茶々が秀吉の側室になったのは、天正16年(1588)のころとされている(福田千鶴『豊太閤の私的生活』)。これは、第一子の鶴松が同17年5月に生まれたところから逆算しての推定。しかし、福田氏は「(母親のお市が亡くなった翌年)天正十二年の段階ですでに三姉妹の進路は決められていたのではなかろうか」(『淀殿』)。「秀吉が茶々に求婚すると、茶々は知恵を働かせ、妹二人を嫁がせたのちなら秀吉と一緒になる約束をした」(『豊臣家の女たち』)と推測している。

茶々の妹(浅井長政次女)「初」常高院の肖像画、江戸時代
茶々の妹(浅井長政次女)「初」常高院の肖像画、江戸時代〔画像=常高寺所蔵/PD-Art(PD-Japan)/Wikimedia Commons〕

この茶々の提案については、妹・お初(常高院)に仕えた女房の回顧録(覚書)である『渓心院文』という史料にも記されている。

実際、天正12年に末妹の江ごうが佐治一成に、天正15年に次妹の初が京極高次に嫁いでいる。

茶々の妹(浅井長政三女)「江」崇源院像、江戸時代
茶々の妹(浅井長政三女)「江」崇源院像、江戸時代(画像=養源院所蔵/『戦国大名浅井氏と北近江』長浜城歴史博物館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

好色な男に姉妹を狙われたら…

ただ、秀吉ほどの好色家が三姉妹のうち、茶々だけを妻として、他の二人に手を付けなかったのは不思議でもある。その理由として、「秀吉が茶々に求婚すると、茶々は知恵を働かせ、妹二人を嫁がせたのちなら秀吉と一緒になる約束をした」(『豊臣家の女たち』)という。なぜ茶々は「知恵を働かせ」なければならなかったのか。

ここで思い出されるのが、昭和初期、ある鉄道会社創業者の有名なエピソードである。

その創業者は女性関係が乱倫を極めていた。没落した資産家に入り浸り、3人の娘のうち、次女をお目当てにしていたが、なかなか靡なびかない。そこで、創業者は長女と三女と関係を持った。すると、次女は「自分が妻になるので、姉と妹からは身を引いてほしい」と懇願したという。

茶々は二人の妹の盾になって、自らの身を捧げたのかもしれない。

菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。