「妻」のポジションは一人ではない
秀吉の正室は北政所・寧々なので、茶々は側室である――と考えられていたのだが、実は茶々も“妻”だったらしい。
研究者の福田千鶴氏によれば、戦国時代は一夫多妻制で、複数の妻(+複数の妾)がいた。しかし、江戸時代に一夫一妻制になったので、茶々も「側室≒妾」に分類されてしまったらしい。福田氏は秀吉には少なくとも5人の妻がいたという。北政所・寧々、淀殿・茶々、松の丸殿・龍子(京極氏)、姫路殿(織田氏)、加賀殿・摩阿(前田氏)の5人である(福田千鶴『淀殿』)。
第一子を産んだ?「南殿」
寧々以外の秀吉の妻・妾として、最古参と推測されているのが南殿である。
秀吉には長浜城時代に石松丸という子がいたという説があり、秀吉びいきの歴史学者・桑田忠親が、南殿という側室がその母であると指摘したのだ。しかし、石松丸は朝倉景鏡の子を秀吉が養子に迎えたものであり、秀吉が納めた奉加帳に名前があるだけで、南殿が秀吉の側室で石松丸の母というのは推測に過ぎない(『増補新版 豊臣家臣団の系図』)。
信長の姪である「姫路殿」の存在
妻妾の中で比較的古株と考えられるのが、織田信包(信長の弟)の長女・姫路殿だ。その名の通り、姫路城にいたから姫路殿と呼ばれた。秀吉は中国経略のために播磨に赴き、天正5(1577)年から姫路城を拠点とした。いつ頃、秀吉の妻に迎えられたかは定かではないが、天正9(1581)年5月には秀吉の妻として認知されていた。しかし、本能寺の変後に母によって離縁させられたという(福田千鶴『豊臣家の女たち』)。
秀吉は中国経略の一環として、天正8(1580)年に鳥取城の山名豊国を攻め、その娘・南局を妾にしたという。表現は悪いが「戦利品」であり、秀吉の妻妾はこのタイプが多い。