「戦利品」として次々に武将の娘を…
天正10(1582)年6月の本能寺の変で、近江半国守護・京極高次とその妹婿である若狭守護の武田元明は明智光秀に与した。山崎の合戦後の天正10年7月に秀吉は武田元明を討ち、未亡人の松の丸殿・龍子を妻とした。具体的にいつ妻にしたのかは不明だが、翌天正11年4月に賤ヶ岳の合戦の際、龍子が兄・京極高次の助命嘆願をしているので、天正10年と考えるのが妥当だろう。
また、秀吉は賤ヶ岳の合戦後に前田利家のもとを訪ね、三女の加賀殿・摩阿(11歳)をもらい受けた。人質という意味なのだろうが、妻にしちゃったのだ。人質の娘を妻妾にする事例は、武田信玄の諏訪御寮人(勝頼の母)、徳川家康の西郡局(次女の母)等、戦国時代ではよくあるパターンだった。
秀吉は前田利家の四女・豪姫(1574~1634)を天正3(1575)年頃に養女としており、摩阿は当初豪姫と行動をともにしていたらしい。豪姫としては2歳年上のお姉ちゃんがやってきて楽しい思いをしたのだろうが、その姉が養父の妻にされるとは理解できなかったにちがいない。
まだ15歳前後だった信長の娘も
さらに、秀吉は賤ヶ岳の合戦の凱旋の帰路、近江日野城に立ち寄り、織田信長の娘・三の丸殿を連れ帰って妻とした。近江日野城主・蒲生賢秀(蒲生氏郷の父)は本能寺の変が起こると安土城にいる信長の親族を日野城に退避させた。おそらく秀吉はその情報を掴んで、信長の娘を物色したのであろう。
三の丸殿の生年は不詳だが、「この時は十五歳前後だったことになる。まだ十五になるかならないかの若い娘たちをこれだけたくさん引き連れて、よくまあ京都に凱旋したものだと、やや呆れ気味になるが、これは秀吉の女狂いというよりは、もはやロリータ・コンプレックスというべき様相を呈している」(『豊臣家の女たち』)。
なお、氏郷の妹・三条殿も秀吉の妾とされているが、福田氏は三の丸殿と混同したものとしている。