宇野家当主の伯父と美しい伯母

高森にいた間のことで、忘れられないことがあった。私は肺病やみのトモの子供で、体がとても弱かった。便が何日も出なかった。「いつでも、楊子のさきでせせって出したんですよ」と伯母はその話をしては笑った。せせって、と言うのは、楊子のさきでいじくって、と言うことなのであった。この伯母は噂に高い美しい人であったが、この美しい人が、足なえの伯父の妻であるのを、誰も不思議に思ってはいない。この家が特別の家である、と思われていたからなのか。

あれはつい二、三年前のことであったが、私は『残ってゐる話』と言う自分の作品を書くのに、私の生まれた家の歴史、と言うようなものを、どうしても知る必要があって、そうだ、あの稚い頃に、その家に預けられたり、少し大きくなってからもしばしば行ったことのある、あの父の生家は、いま、どうなっているだろうと思い、ほとんど六、七十年もの間、見ることもなかったその家へ行って見たのであるが、ちょうどあの伯父伯母夫婦から三代目の孫に当たる登美子さんが来ていて、家の中を案内してくれた。

83歳のときの宇野千代、1981(昭和56)年10月14日
写真=共同通信社
83歳のときの宇野千代、1981(昭和56)年10月14日

部屋の数は32、大名屋敷のような家

部屋の数が三十二あった。何千坪もある庭続きの地所の奥に、杜氏とうじその他、酒を作る職人たちの住んでいた長屋が続いていて、その長屋を出たところに、見上げるような冠木門かぶきもんのあるのを見て、私はちょっと吃驚びっくりした。稚い子供ではなく、現在の私が、昔の父の生家を見て、これは特別の家だなと思ったのだから不思議である。

あれはいつのときのことであったか、或あるとき、この高森の家から川西の家へ帰って見ると、家には新しい母が来ていた。「今日から、これがお前のお母じゃ」。父がそう言った。私はこの降って湧いたような母を、吃驚して眺めた。色の白い、それはきれいな人であった。私には自分を生んだ生母の記憶が全くなかったので、生母とこの新しい母とを比較して考えることが出来なかったのである。