絶対書けなかった「唯一のタブー」

ここまで書くと、岡留には本当に何のタブーもなかったように見える。しかし、『スキャンダル雑誌のつくりかた』における中村との対談で、意外な話が出た。

岡留は二大取次、トーハンと日販について「問屋に関しては絶対書かない」と言っていたという。総理大臣も検察もヤクザも芸能人も作家も恐れない男が、全国に本を卸す問屋だけは怖かった。

雑誌を印刷しても、読者に届かなければ意味がない。取次を通り、書店やコンビニに並ぶことで初めて商品になる。反権力の雑誌も流通という現実の上に存在する。そこに『噂眞』の矛盾と人間臭さがある。

私はこの矛盾を隠す必要はないと思う。むしろ、理想論だけでなく、どこでカネを取り、どこでカネを断り、何を守るのかという具体的な選択の積み重ねこそ、組織の思想なのである。

だから『噂眞』の広告戦略を現代の会社がそのまま真似る必要はない。学ぶべきは、自分たちの商品価値を壊す収入は何かを考えることだ。売り上げを増やすほど本業の信用が落ちるなら、その売り上げは本当に利益なのか。岡留のやり方は、その問いを突きつける。

接待を受けても書けばいい

岡留の「屈折」は、メジャーなマスコミの外側から出発したこととも関係している。小さな媒体名を名乗った途端に電話を切られる。その悔しさが「地べたから突き上げる」感覚につながった。経営は単なる数字ではなく、編集者の出自や感情とも結びつく。

『噂眞』が問いかけるのは、反権力を叫ぶことより、収益と編集権の境界をどこに引くかという具体論である。6000万円を払う広告主がいても編集権は渡さない。大企業広告は断る。しかし取次には弱い。矛盾を抱えながら、書ける領域を最大化する実務感覚があった。

現在のオンラインメディアなら、広告主だけでなくプラットフォーム、検索、SNS、サブスクリプション、アルゴリズムへの依存がある。紙の時代の取次とは形が違っても、「そこに嫌われたら読者へ届かない」という構造は残る。

一方で取次だけは別だった。企業は「何にも依存しない」ことなどできない。広告依存を減らしても流通に依存する。だから重要なのは、自分たちが何に依存しているかを自覚することだろう。

企業との付き合いや接待が直ちに悪なのではない。飯をご馳走になったって、その後も遠慮せずに書けばいい。問題は接待の会食を受けた後に書けなくなることだ。問題は、どのカネを受け取れば、どの記事が書けなくなるかだった。