数千億円規模の蓄財
温和で誠実で寛大だった、というイメージがある秀長だが、現実には、寺社のほか町人にとっても百姓にとっても、過酷な搾取を行う冷酷な君主だったといっていい。
先述したように、自分の側の役人たちの不正も許さないという点では公正だった。また、役人と交渉した庄屋を処罰する一方で、灌漑用水の工事を進めるなど、飴とムチをうまく使い分けた。しかし、自分が死の床についたとき、寺社から検地で没収した領地の返還を決めたのは、かなり苛烈な収奪をしていると自分でも認識していたからだろう。
秀長の死後、大和郡山城には莫大な遺産が遺されていた。金子は約5万6000枚あり、銀子は2間四方(8畳程度)の部屋に満杯に積み上げられ、銭は何千貫あるかわからないほど貯えられており(『多聞院日記』)、今日の金額に換算すれば、数千億円にも匹敵するといわれる。
秀長は志半ばで、数え52歳にして病死したが、豊臣政権を支えるために、あるいは朝鮮出兵の費用も見込んで、蓄えたのかもしれない。だから、これを私的な蓄財だと決めつけることはできないが、領民に対して温和で誠実で寛大だったら、これほどの蓄財はできなかった。そのことは断言できる。
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