寺社から領地を次々没収
秀長が拝領したのは大和のほか紀伊(和歌山県)、和泉(大阪府南西部)で、石高は計73万石余り。興福寺多聞院の僧侶、英俊が記した『多聞院日記』によれば、9月5日、兄の秀吉とともに5000人を率いてかなり仰々しく大和へ入国し、それまで同国を治めていた筒井定次から受け取った大和郡山城に居を定めた。
それに先立って、秀長の領国統治ははじまっており、たしかに寺社に対しては毅然と向き合った。大和入国前の閏8月にはすでに、寺社に指出検地、すなわち領主が現地で測量するのではなく、土地の面積や収穫量を自己申告させる検地を命じたが、結果として、それは非常に厳しく行われた。
指出検地は5年前にも織田信長の命で行われており、そのとき申告された石高は、興福寺1万8209石、大乗院919石、法隆寺西寺1577石、同東寺1124石、多武峰6007石……だった。ところが秀長の指出検地では、興福寺は2万5693石、大乗院は1747石などと、申告された石高が、多くの寺社で増えていた。
とりわけ興福寺は、信長の時との差が大きかったために不正申告だったとされ、11月には興福寺領が1万5000石に定められ、7200石は没収されている。このように検地の「不正」を追及され、領地を減らされた寺社が多かった。
領民にも自分にも厳しかった
寺領が減らされた分、領民の負担が軽減された、というわけではない。『多聞院日記』によれば、天正15年(1587)8月には、奈良盆地の庄屋37人が一斉に捕らえられ、牢屋に入れられた。前年に秀長が検地をおこなった際、庄屋たちは年貢を過少申告させてもらうために、検地を担当する役人に贈り物をしていた。これが不正だとして、庄屋たちが処罰されたのである。
じつは、検地の際に百姓が役人と交渉するのはごく一般的で、その際には贈りものをするのが通例だった。だが、秀長はそれを認めず、厳然と臨んだのである。
ある意味、秀長は自分の側にも厳しかった。たとえば、大和入国直後に法隆寺に対して発給した「五カ条の掟」では、秀長の奉行らが百姓に不法な行いをしたら、奉行らを捕まえて報告するように、とか、誰かが法隆寺になにを指示したとしても、秀長の命令書がないかぎり従ってはならない、とか、秀長の下の組織で不法が行われないように、厳しくチェックしようとしている。おそらく、ほかの寺社などにも、同様の「掟」が発給されていたと思われる。
検地に関しても、誰かが税を賦課しようとしても、秀長の書状がなければ受け入れてはならない、という意を伝えている。検地に厳しく臨みながら、自分の下で働く役人たちの行動に対しても厳しく臨んでいた。その点では公正だった。とはいえ、寺社からも領民からも徹底して収奪したことには変わりない。

