大和郡山城に使われた地蔵
収奪が厳しかったのは年貢だけではない。秀長は大和郡山城の改修に際しても「収奪」が厳しかった。
当時、「天下」とは山城(京都府南部)、大和、河内(大阪府北東部から南東部)、和泉、摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)の五畿内とその周辺を指した。すなわち秀長は、天下の南部で大坂城のすぐ東側の統治をまかされたわけで、以後、大和郡山城はその本拠地にふさわしい城へと大改修された。
その際、苦労したのは石垣集めだった。当時は城郭に大規模な石垣が築かれるようになって間もなく、山地から石材を切り出すシステムが整っていなかったため、秀長はそこら中の石を根こそぎ大和郡山城に運ばせた。
『多聞院日記』によれば、興福寺からは墓石や地蔵にはじまって、庭石や礎石まで持ち去られ、筆者の英俊が嘆いている。無秩序に石が持ち去られた結果、薬師寺で採石が禁じられたという記録もある。領民に対しても、各家には石垣の背面に入れる裏込め石の供出が命じられ、石臼などの生活用具も集められた。
要するに、領民が苦しんでいるから寺に対して年貢の適正化を図った、というきれいごとではなかった。自分の城を築くのに石材が足りなければ、寺社だろうと領民だろうと容赦なく収奪したのが秀長だった。
権力による強制的な高利貸し
大和郡山の振興策もかなり強引だった。これも『多聞院日記』に記載があるが、天正13年(1585)9月に入国すると、翌月には奈良での商売を禁じて、物の売買は郡山でのみ行うように命じた。味噌や酒、胡麻や油から、菜、海苔、柴木から硫黄に至るまで、それまで特権的に商売が認められ、大和の経済の中心となっていた奈良では、一切の商売ができないことにし、郡山でのみ商売を認めたのである。
郡山では家地子(宅地税)を免除して同業者を集め、大和国内の経済および物流の中心を奈良から郡山へと、強引に移そうとした。奈良の町人にとってはたまったものではなく、撤回を訴えて郡山に向かった町人もいたが、門前払いだった。
こうして困り果てた奈良の町人に対しては「ならかし(奈良貸し)」が行われた。金銀や米銭などが貸し付けられたのだが、救済策ではなかった。秀長が権力によって強制的に貸し付け、高利で返済させたのだ。権力による強制的な高利貸しだから、たちが悪い。
奈良の町人たちが苦しんだのはいうまでもなく、『多聞院日記』によれば、秀長が死去した天正19年(1591)には、厳しく取り立てられた余り、殺人事件が起きたり、町人が一家心中に追い込まれたりしたという。

