なぜ七本槍に美濃衆がいないのか
秀吉家臣団は「尾張・美濃・近江衆+その他」で構成されていたらしい。
秀吉は天文24(1555)年頃に信長の家臣となり、永禄8(1565)年の東美濃攻略で功を立てた。この頃、蜂須賀正勝や前野長康ら尾張北部の旧岩倉織田家旧臣を与力に付けられた公算が高い。永禄11(1568)年に信長が上洛する頃に秀吉は部将に登用され、竹中半兵衛ら美濃斎藤旧臣を与力に付けられたと思われる。
元亀元(1570)年に秀吉は浅井攻めの守将として横山城の守備を任され、天正元(1573)年に浅井家が滅亡すると北近江三郡を与えられ、長浜に居城を築いた。ここで浅井旧臣を家臣に加えた。さらに、天正5(1577)年に播磨姫路城(兵庫県姫路市)に入り、播磨平定に着手。播磨等で家臣を増やしていった。
ではなぜ、七本槍に美濃衆が居ないのか。たまたまという可能性もあるが、実は秀吉家臣団の年齢構成に秘密があるのだ。
秀吉家臣団の3世代構成
秀吉家臣団の年齢構成は大きく3つに分類できる。
① 秀吉より9歳以上年上
② 秀吉より9歳未満年上か15歳年下まで
③ 秀吉より15歳以上年下
この年齢分布とどこの出身かが見事にマッチしているのである。
まず、秀吉家臣団の主な部将で「①秀吉より9歳以上年上」は尾張衆しか居ない。東美濃攻略の時、秀吉は28歳。当然、若年者よりアラフォーの蜂須賀正勝や前野長康らを与力に付けた方が適切だと信長は考えたのだろう。そして、部将として駆け出しの秀吉にとって、老練なかれらは頼もしいパートナーとして映ったに違いない。
次に「②秀吉より9歳未満年上か15歳年下まで」であるが、尾張衆は一門衆(木下・杉原・浅野、小出)がほとんどを占める。上洛時に秀吉は31歳。前後10歳くらいの部将が欲しいところだが、おそらく旧岩倉織田家臣はすでに他の部将の与力になってしまい、放浪生活を送っていた山内一豊くらいしか居なかった。そこで、美濃衆が与力として加えられたのだろう。