賤ヶ岳の戦いで秀吉がした大バクチ
「天下分け目の合戦」といえば、関ヶ原の合戦を指すことが多いが、秀吉にとっての「天下分け目の合戦」は賤ヶ岳の合戦だった。
賤ヶ岳(滋賀県長浜市)あたりで、勝家の甥である佐久間盛政・柴田勝政兄弟が率いる軍勢と秀吉軍が激突。秀吉は自身の身辺警護をしていた近習らをも合戦に投入した。サッカーでいえば、ゴールキーパーに攻撃参加を命じるような大バクチである。そして、これが功を奏して大勝利を収め、盛政は敗走を余儀なくされた。
この時、活躍した近臣がいわゆる「賤ヶ岳の七本槍」である。
「賤ヶ岳の七本槍」と命名したのは、『太閤記』を書いた小瀬甫庵で、かつて織田信秀(信長の父)が今川義元と戦った際の「小豆坂七本槍」になぞらえて名付けたらしい。実際には石川一光、桜井家一も含めた9人が一番槍の栄誉に浴したのだが、石川が討ち死に、桜井は秀長家臣だったらしく、7人にしたらしい。
20代までの若手チーム「賤ヶ岳の七本槍」
「賤ヶ岳の七本槍」の7人は1550年代中盤から1560年代中盤生まれ、最年長の脇坂安治が29歳(満年齢)、最年少の加藤嘉明が20歳で非常に若い。徳川家臣団でいうと、本多忠勝・榊原康政が35歳。ついこの間まで万千代を名乗っていた井伊直政が福島正則と同年齢という感じだ。
脇坂安治 近江出身 29歳
片桐且元 近江出身 27歳
平野長泰 尾張出身 24歳
福島正則 尾張出身 22歳
加藤清正 尾張出身 21歳
糟屋武則 播磨出身 21歳
加藤嘉明 三河出身 20歳
年齢順にキレイに近江・尾張・播磨・三河出身に分かれているが、秀吉は「尾張」に生まれ、「近江」長浜城主に抜擢され、「播磨」に出兵と、やや順番が異なっている。
福島正則は秀吉の家族同然だった
尾張出身の福島正則と加藤清正は秀吉の従兄弟、またはハトコだといわれている。加藤清正は秀吉の近所の子で血縁関係がないという説もあるが、福島正則は秀吉の血縁である可能性が極めて高い。
「豊臣兄弟!」で秀吉は旗印に桐紋をつけているが、桐紋は天下人になった後に下賜されたもので、当時は沢瀉紋を使っていたらしい。福島家の家紋もまた沢瀉なのだ。秀吉から下賜されたのではないか。
また、「豊臣兄弟!」で描かれた通り、秀吉は別所一族の離間を図り、その一環として長治の叔父・別所重棟に正則の異母姉を嫁がせている。血縁者を人質に出した格好だ。換言するなら、福島正則は秀吉公認の親族だったということだ。
尾張の名門のプリンス・平野長泰
福島正則の父は番匠や大工、加藤清正の父は刀鍛冶という説があり、いずれも出自は高くない(秀吉自身の出自が低いので、親族が高貴な家柄のわけがない)。それに比べ、平野長泰は城主クラスの子である。平野家は「津島七党」の一つに数えられる名家で、長泰の祖父・平野入道万休は尾張国海東郡津島の奴野城(愛知県津島市)の城主。父・平野長治は信長・秀吉に仕えた(『寛政重修諸家譜』)。「豊臣兄弟!」で平野長泰は秀吉が長浜城主になった時に家臣に応募・採用されたと描かれていたが、実際は父の代から秀吉の与力だったのだ。
浅井家家臣の子、脇坂安治と片桐且元
脇坂安治と片桐且元は旧浅井家臣の子として生まれた。父の身分は且元の方が高かったようである。安治の父は脇坂外介安明だが、且元の父は片桐肥後守直貞と、受領名を名乗っている。直貞について『戦国大名家臣団事典 西国編』では「小谷城の麓、須賀谷に居住し、小谷城の要害の一つをなす」と記されており、重臣クラスであったことがわかる。後年、秀頼の家老に抜擢されたのは、浅井家出身の淀殿の意向があったのかもしれない。
ちなみに、脇坂安治は浅井家滅亡後、明智光秀の与力を経て、秀吉の与力になった。丹波黒井城攻めにてわずか15歳で武功をあげた。これが秀吉の目に留まり、秀吉に懇請されて与力になったという。
糟屋武則と加藤嘉明のルーツは…
糟屋武則は加古川城主(兵庫県加古川市)の家柄に生まれた。糟屋家ははじめ別所長治に仕えていたが、黒田官兵衛に説得され、秀吉に降ったという。
加藤嘉明は三河国永良(愛知県西尾市)に生まれた。父はもともと徳川家臣だったが、三河一向一揆で一揆勢に加わり、一揆鎮圧後に父子ともに三河を出奔して織田家に転仕した。はじめ秀吉の養子・羽柴於次秀勝(信長の実子)付きの小姓になったが、秀吉の播磨出兵に従った。秀吉家臣団に三河出身者はほとんど居なかったと想定され、加藤嘉明は極めて異例なケースだったと想定される。
なぜ七本槍に美濃衆がいないのか
秀吉家臣団は「尾張・美濃・近江衆+その他」で構成されていたらしい。
秀吉は天文24(1555)年頃に信長の家臣となり、永禄8(1565)年の東美濃攻略で功を立てた。この頃、蜂須賀正勝や前野長康ら尾張北部の旧岩倉織田家旧臣を与力に付けられた公算が高い。永禄11(1568)年に信長が上洛する頃に秀吉は部将に登用され、竹中半兵衛ら美濃斎藤旧臣を与力に付けられたと思われる。
元亀元(1570)年に秀吉は浅井攻めの守将として横山城の守備を任され、天正元(1573)年に浅井家が滅亡すると北近江三郡を与えられ、長浜に居城を築いた。ここで浅井旧臣を家臣に加えた。さらに、天正5(1577)年に播磨姫路城(兵庫県姫路市)に入り、播磨平定に着手。播磨等で家臣を増やしていった。
ではなぜ、七本槍に美濃衆が居ないのか。たまたまという可能性もあるが、実は秀吉家臣団の年齢構成に秘密があるのだ。
秀吉家臣団の3世代構成
秀吉家臣団の年齢構成は大きく3つに分類できる。
① 秀吉より9歳以上年上
② 秀吉より9歳未満年上か15歳年下まで
③ 秀吉より15歳以上年下
この年齢分布とどこの出身かが見事にマッチしているのである。
まず、秀吉家臣団の主な部将で「①秀吉より9歳以上年上」は尾張衆しか居ない。東美濃攻略の時、秀吉は28歳。当然、若年者よりアラフォーの蜂須賀正勝や前野長康らを与力に付けた方が適切だと信長は考えたのだろう。そして、部将として駆け出しの秀吉にとって、老練なかれらは頼もしいパートナーとして映ったに違いない。
次に「②秀吉より9歳未満年上か15歳年下まで」であるが、尾張衆は一門衆(木下・杉原・浅野、小出)がほとんどを占める。上洛時に秀吉は31歳。前後10歳くらいの部将が欲しいところだが、おそらく旧岩倉織田家臣はすでに他の部将の与力になってしまい、放浪生活を送っていた山内一豊くらいしか居なかった。そこで、美濃衆が与力として加えられたのだろう。
旧浅井家臣でリストラされた武将
一方、近江衆は文官が多い。もちろん旧浅井家臣の有力部将もいたはずだが、淘汰されたようだ。たとえば、浅井攻略時に寝返った阿閉貞征は年齢不詳だが、子の阿閉貞大も部将であることから、秀吉と同年代か年上と思われる。阿閉父子は秀吉の与力とされたが、秀吉からの圧迫があって次第に険悪な仲となり、信長の直轄軍に編入されたようだ(『織田信長家臣人名辞典』)。秀吉はこの年代の旧浅井家臣を配下に加えることを好まなかったらしい。
そして、「③秀吉より15歳以上年下」であるが、尾張衆・美濃衆は福島・加藤を除けば、秀吉家臣の二世しか居ない。かれらは親の代から秀吉に仕え、秀吉から見れば譜代家臣といってもいいだろう。換言するなら、秀吉は二世家臣と親戚(福島・加藤)以外には心を許さなかったとも言える。近江衆は「②秀吉より9歳未満年上か15歳年下まで」の部将が淘汰され、若手の部将しか残らなかった。秀吉が長浜城主になったのは39歳。片桐且元がちょうど20歳。新入社員と中堅課長くらいの関係で、秀吉もかれらの忠誠心を信じたことだろう。
トップに立ち、忠誠心が厚い若手を抜擢
賤ヶ岳の合戦の時、秀吉家臣団の構成は、苦楽をともにしてきた「①秀吉より9歳以上年上」の蜂須賀正勝・前野長康らが老齢に差しかかり、世代交代の時期に入っていた。しかし、「②秀吉より9歳未満年上か15歳年下まで」の一門衆は戦上手とはいえず、美濃衆に頼らざるを得なかった。
この年代の近江衆が淘汰されたことが示すとおり、秀吉は同年代の部将をあまり好まず、忠誠心のある若手「③秀吉より15歳以上年下」層を好んだ。「賤ヶ岳の七本槍」は後世の作家が命名したものであるが、秀吉は若手の活躍をアピールすることで、かれらの抜擢を容易にしたに違いない。
これは現代の会社などでもよくあることだろう。のちに社長になる人物が、平社員から課長へ、部長へ、そして重役へとスピード出世していく段階で、自分を引き上げ支えてくれた人が自分より年上か同世代だったとしても、社長就任後は一転、自分に対してロイヤルティの高い年下を抜擢し、重用するようになっていく。意志決定はしやすくなるが、社長にとって“耳に痛い”意見を言う者はいなくなる。
天下人となった秀吉もそうしたのだが、これが結果的に豊臣家のためになったのか。400年以上前のこととはいえ、人材登用の難しさを感じさせるエピソードではある。