明智光秀の娘と結婚したせいで…

信長は光秀を近畿担当と考えていたらしく、摂津有岡城の荒木村重、山城勝龍寺城の細川藤孝(幽斎)との婚姻を勧めた。結果、光秀の長女が村重の長男、三女の玉(ガラシャ)が藤孝の嫡男・細川忠興と結婚した。信澄の結婚もその延長上にあったのだろう。

信長公記』では天正3年から信澄が登場するが、当初は「津田七兵衛」で、天正7年から「織田七兵衛」へと記載が変わっている。『信長公記』は姓名を正しく記述していることで定評がある。その記述を信じるならば、はじめ津田姓だったが、天正6年に大溝城主に昇格し、織田姓を許されるようになったのだろう。徳川家の分家が松平姓を名乗っていたように、織田家の分家は津田姓を名乗っていたらしいのだが、具体的な基準は分からない。

天正10(1582)年5月、信澄は織田信孝(信長の三男)による四国征伐に従ったが、四国に渡海する直前、同天正10年6月2日に本能寺の変が起き、光秀の女婿だったことから6月5日に自刃に追い込まれた。

こうした経緯から、信澄を本能寺の変の黒幕とする説があるようだが、史料的な裏付けはなく、真実とは思えない。

楊斎延一画「本能寺焼討之図」、明治29年(1896)、名古屋市所蔵
楊斎延一画「本能寺焼討之図」、明治29年(1896)、名古屋市所蔵(画像=ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

信澄は幼い昌澄を残して自刃

信澄はまだ20代の若さでこの世を去ったが、光秀の娘との間に遺児・織田昌澄がいた。昌澄は天正7(1579)年生まれで、父が死去した際に満3歳(父と同じだ)だった。「亡父のよしみにより藤堂高虎に庇護された」(『大坂の陣 豊臣方人物事典』)。どういうことかといえば、高虎は羽柴小一郎秀長に仕える前、信澄の養父・磯野員昌に仕えていたのだ。昌澄という名は、員昌と信澄から命名されたのかも知れない。

【図表2】織田信澄と近畿の大名たち
筆者作成

その後、高虎の下を離れて浪人となったが、慶長8(1603)年に千姫が大坂城に輿入れする際、母が上臈(上位の女中)として付き従ったため、昌澄も大坂城で秀頼に仕えた。大坂の陣では藤堂勢を相手に奮戦。家康にその働きを認められ、落城後には藤堂高虎・細川忠興・土井利勝を通じて、秀忠に召し出され、子孫は2000石の旗本となった。

織田家は江戸時代以降もいくつかの家に分かれて存続したが、信長と骨肉の争いを繰り広げ、処断された弟・信勝の子孫は、意外にも長く続いたのである。

【図表3】織田信勝・信澄の子孫たち
筆者作成
菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『財閥と閨閥 10大財閥の婚姻戦略』『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『一目で流れがわかる業界変遷100年史』(KADOKAWA)など。