「豊臣兄弟!」(NHK)に信長(小栗旬)の実の甥・信澄(緒形敦)が登場。これまで大河ドラマにはほとんど出てこなかった注目の人物だ。系図研究者の菊地浩之さんは「信澄は信長の同母弟・信勝の遺児で、信長に認められ、明智光秀の娘と結婚した」という――。

秀吉&秀長、信長&信勝の兄弟

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)は豊臣家の話であるのと同時に、兄弟の物語でもある。

のちに豊臣秀吉(池松壮亮)・秀長(仲野太賀)となる兄弟には家産と呼べるようなものはなく、兄弟が助け合って天下人へとなっていった。それと対照的に描かれているのが、秀吉の主君・織田信長(小栗旬)と、彼が殺した織田信勝(一般には信行)の兄弟である。

織田信長・信勝兄弟は織田信秀の子として生まれた。信勝の生年は不明であるが、信勝の弟・織田秀孝と信長の年齢差が7歳と考えられるので、信長・信勝兄弟は2~3歳差と考えてよいだろう。ちなみに同母兄弟である。

信秀は、尾張守護代の清須織田家の三奉行(因幡守いなばのかみ家、藤左衛門家、弾正忠家)のひとつ、弾正忠家に生まれ、勝幡しょばた城(愛知県愛西市勝幡町)を本拠としたが、生涯で3回引っ越した。

・天文7(1538)年頃に那古野なごや城(名古屋市北区)を攻め落として、その城主となった。
・天文15(1546)年に那古野城を信長に譲って、信秀は古渡城(名古屋市中区)に移り住む。
・天文18(1549)年頃に信秀はさらに末盛城(名古屋市千種区)に移住。

信長は信秀にとって別家のような扱いで、信秀は信長を那古野城に置いて、信長以外の家族を連れて古渡・末盛城に移住したと考えられる。

信秀は天文21(1552)年に死去し、末盛城は信勝が引き継いだ。信勝は正妻の子でかつ信長に次ぐ男子であったからだろう。

信長は清須織田家と協力していた

信長が清須織田家などの一族を倒して尾張統一を成し遂げたため、父・信秀もまた一族を敵に回していたというイメージがある。しかし、信長は尾張統一後に美濃に出兵しているが、信秀は尾張統一をせぬまま、美濃・三河に出兵していた。国内に敵を抱えたまま、国外に出兵できるものだろうか。近年の研究では、信長は清須織田家と協調関係にあり、むしろ清須織田家の支援を受け勢力を拡大してきたと指摘されている(『織田信長の系譜』)。

ただ、天文17(1548)年、美濃の斎藤道三は織田家の美濃侵攻に辟易して清須織田家を調略し、信秀が留守にしていた古渡城を清須織田家に攻めさせた。ここで、信長の次席家老・平手ひらて政秀が斎藤道三と信秀との講和を実現する(道三の娘・濃姫と信長の婚約はこの講和によるものである)。

名古屋城二の丸に残る那古野城跡
名古屋城二の丸に残る那古野城跡(写真=立花左近/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

父・信秀の死去で清須織田家は…

その翌年、信秀は末盛城に移住したが、末盛城と清須城とを結ぶ街道の中間に那古野城がある。一方、古渡城は清須城から街道で一直線の場所にある。古渡城から末盛城への移住は、清須織田家を警戒していたからではないか。

清須織田家としては、斎藤道三にそそのかされて信秀の城を攻めたものの、そのあとに道三と信秀が講和するという、ハシゴを外された状況になった。面目丸つぶれである。そして、その関係が悪化したまま、信秀は死去してしまう。

【図表】信長の父・織田信秀の拠点移転図
筆者作成

弟の信勝を織田家当主にする動き

信秀の死後、信長は斎藤道三と同盟関係を強化する一方、信勝は信長と距離を置いた。天文23(1554)年、信長は清須織田家を滅ぼして清須城主となり、筆頭家老・林秀貞を那古野城代とした。ところが、林は信勝付きの重臣・柴田勝家と結び、信勝の擁立を企んだ。

弘治2(1556)年、林秀貞の弟・林美作守が700、柴田勝家が1000の兵を率いて出陣。稲生村(名古屋市西区)で信長の兵700弱と合戦に及んだ。信長が勝利し、林・柴田軍は450もの死者を出す大敗を喫した。信長の実母・土田どた御前が両者の赦免を要請したため、信長は講和に応じた。『信長公記』では、信勝が合戦の場面に一切出てこないが、柴田の参陣は信勝の意図を汲んだものであり、実際には信勝自身も参陣していた可能性が高い。

信勝は信長に敗れ、死に追いやられる

信勝は敗戦後も美濃の斎藤義龍や岩倉織田家と連携して捲土重来けんどちょうらいを期した。しかし、永禄元(1558)年の秋頃に信長は岩倉織田家を滅ぼし、同じ頃に柴田勝家が信長に通じて、信勝に謀反の兆しありと密告した。同永禄元年11月、信長は病気と偽って信勝を清須城に招き入れて暗殺した(自刃させたともいう)。

信勝の息子・信澄は生き延びた

勝には遺児がおり、信長に仕えた。「豊臣兄弟!」にも登場する織田信澄のぶずみである(緒形敦が演じる)。弘治元(1555)年生まれで、母は和田備前守の娘・高嶋局たかしまのつぼね。母方の祖父・和田備前守が何者なのかは不明であるが、官途かんとを名乗っているからには名のある武士だと想像される。『織田信長家臣人名辞典』に和田新助が「犬山の織田信清の家老で黒田城主」として掲載されており、その親族なのかも知れない。婚姻の時期は林秀貞が信長・信勝兄弟の離間を画策している頃と推測され、政治的にどのような文脈で婚姻したのかも不明である。

父・信勝が暗殺された時、信澄は満3歳。信勝の旧臣・柴田勝家の下で育てられ、「永禄七(1564)年正月元服して津田を称す(津田信澄)。この日尾張国川西の地を宛行はれ、蝶の紋をゆるさる」という(『寛政重修諸家譜』。ただし尾張には「川西」という地はなく、詳細は不明である)。

織田信澄像『英名百雄傳』(国文学研究資料館所蔵)、江戸時代(出典=国書データベース)
織田信澄像『英名百雄傳』(国文学研究資料館所蔵)、江戸時代(出典=国書データベース

高島郡大溝城主の養子になる

のちに信澄は磯野員昌かずまさの養子になった。厳密な年月は不明である。磯野は浅井長政の家臣で、浅井領の南端・佐和山城を守っていたが、姉川の合戦後に孤立して元亀2(1571)年に投降した。信長は投降した敵に寛容なところがあり、磯野は琵琶湖西岸の高島郡大溝城の城主に登用された。信澄がその養子になったのは天正初年(1573~)といったところであろうか。少なくとも天正4(1576)年には高島にいたことが『兼見卿記』に見えている(『織田信長家臣人名辞典』)。

しかし、磯野は天正6(1578)年に突然、原因不明の逐電を遂げてしまう。信澄への家督継承がこじれたとの説もあるが定かではない。遺領は信澄が継承し、本能寺の変までその支配は続いた。

『寛政重修諸家譜』によれば、「天正六年二月三日近江国大溝の城をたまはる。このとき右府より先祖信定(信貞)伝来の刀及び八樋正宗の脇指をたまはり、桐瓜の紋をゆるさる」といわれ、その翌年の天正7(1579)年頃に明智光秀の四女と結婚したといわれている(『明智軍記』)。

安土城跡に残る織田信澄跡の石碑、滋賀県
安土城跡に残る織田信澄住居跡の石碑、滋賀県(写真=kouko0515/PD-self/Wikimedia Commons

明智光秀の娘と結婚したせいで…

信長は光秀を近畿担当と考えていたらしく、摂津有岡城の荒木村重、山城勝龍寺城の細川藤孝(幽斎)との婚姻を勧めた。結果、光秀の長女が村重の長男、三女の玉(ガラシャ)が藤孝の嫡男・細川忠興と結婚した。信澄の結婚もその延長上にあったのだろう。

信長公記』では天正3年から信澄が登場するが、当初は「津田七兵衛」で、天正7年から「織田七兵衛」へと記載が変わっている。『信長公記』は姓名を正しく記述していることで定評がある。その記述を信じるならば、はじめ津田姓だったが、天正6年に大溝城主に昇格し、織田姓を許されるようになったのだろう。徳川家の分家が松平姓を名乗っていたように、織田家の分家は津田姓を名乗っていたらしいのだが、具体的な基準は分からない。

天正10(1582)年5月、信澄は織田信孝(信長の三男)による四国征伐に従ったが、四国に渡海する直前、同天正10年6月2日に本能寺の変が起き、光秀の女婿だったことから6月5日に自刃に追い込まれた。

こうした経緯から、信澄を本能寺の変の黒幕とする説があるようだが、史料的な裏付けはなく、真実とは思えない。

楊斎延一画「本能寺焼討之図」、明治29年(1896)、名古屋市所蔵
楊斎延一画「本能寺焼討之図」、明治29年(1896)、名古屋市所蔵(画像=ブレイズマン/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

信澄は幼い昌澄を残して自刃

信澄はまだ20代の若さでこの世を去ったが、光秀の娘との間に遺児・織田昌澄がいた。昌澄は天正7(1579)年生まれで、父が死去した際に満3歳(父と同じだ)だった。「亡父のよしみにより藤堂高虎に庇護された」(『大坂の陣 豊臣方人物事典』)。どういうことかといえば、高虎は羽柴小一郎秀長に仕える前、信澄の養父・磯野員昌に仕えていたのだ。昌澄という名は、員昌と信澄から命名されたのかも知れない。

【図表2】織田信澄と近畿の大名たち
筆者作成

その後、高虎の下を離れて浪人となったが、慶長8(1603)年に千姫が大坂城に輿入れする際、母が上臈(上位の女中)として付き従ったため、昌澄も大坂城で秀頼に仕えた。大坂の陣では藤堂勢を相手に奮戦。家康にその働きを認められ、落城後には藤堂高虎・細川忠興・土井利勝を通じて、秀忠に召し出され、子孫は2000石の旗本となった。

織田家は江戸時代以降もいくつかの家に分かれて存続したが、信長と骨肉の争いを繰り広げ、処断された弟・信勝の子孫は、意外にも長く続いたのである。

【図表3】織田信勝・信澄の子孫たち
筆者作成