直美のモチーフ・雅は入信せず
この年、植村は麴町区一番町48番地(現在の千代田区三番町)に一番町教会を設立して活動の拠点を移していた。
一番町教会は桜井女学校の寄宿舎からも徒歩5~6分と近く、和は看護の勉強で忙しい最中にも頻繁に通って洗礼を受ける準備をした。自分がやると決めたからには、どんな苦労も厭わず一直線に突き進んでやり遂げる。強い意思に裏打ちされた突破力は彼女の真骨頂だ。この後もそれを武器に困難な状況を乗り越えてゆくことになる。
雅もフェリス・セミナリーでキリスト教関係者と深く交流し、聖書やキリスト教関連の書物もひと通りは読んでいた。その教えには共感するところは多いのだが……彼女は信者になろうとまでは思っていない。ひとつの考えにのめりこみ過ぎるのは、視野狭窄に陥ってしまう危険があり、それを避けて信仰とは距離を取っているような感じも見受けられる。このあたり、ふたりの思考の違いが垣間見られて面白い。
現在の東大医学部附属病院で実習
明治21年(1888)10月、1年間にわたりアグネスから看護学を学んだ和と同級生たちは、その成果を試すべく帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)附属第一医院が主催する看護実習に参加した。帝国医科大学でも近代的な看護法を導入するために、1年の期間で「看護法・看病術実地訓練」をおこなうことになり講師をアグネスに依頼してきた。それが縁で桜井女学校看護婦養成所の生徒たちも、委託生として訓練への参加が認められたのである。
約8万8000坪の加賀藩上屋敷跡地を中心に広がる広大な帝国大学キャンパス(現在の東京大学本郷キャンパス)の中には医科大学の校舎もあり、和たちが実習をおこなう附属第一医院も隣接している。病院の南側は緑樹に囲まれた三四郎池があり、大名屋敷だった頃の雰囲気が最もよく残る場所だった。
3棟の長大な建造物によって構成される附属第一医院は、隣接する医科大学よりも大きく存在感がある。当時の日本では最大級の医療施設で、最先端の医療機器を取り揃えていた。が、そこで働く医師たちの思考回路は最先端とはいえない。帝国大学は官僚養成機関としての性格が強く、教授や学生たちも“序列”を強く意識する。古臭い権威主義の窮屈で息苦しい雰囲気が蔓延していた。自由な校風のなかで暮らしてきた桜井女学校の委託生たちはこの空気に馴染めない。