日本滞在は1年だけだったが…
ヴェッチ離日後、和は第一医院で看病婦の2交代制など待遇改善を求める建議書を提出するが医師たちに受け入れられず、第一医院を去る。その後は新潟・高田の知命堂病院の看護婦長などを経て、東京に戻った。雅も明治24年(1891年)に第一医院を辞し、慈善看護婦会(後の東京看護婦会)を創設して、初の派出看護婦会を立ち上げた。
和は後に雅から経営を引き継ぎ、1909年には大関看護婦会を設立。著書『派出看護婦心得』『実地看護法』を世に問い、看護婦の質的向上と社会的地位の向上に生涯を捧げた。日清戦争での日本赤十字社看護婦の活躍、そしてスペイン風邪と関東大震災の襲来する未曾有の困難な時代を経て、看護婦は「卑しい職業」から「なくてはならない専門職」へと、社会の見方を一段ずつ押し上げていく。
故郷で100歳の長寿を全うした
ヴェッチ自身は離日後も世界各地で活動を続け、晩年に故郷エディンバラに戻り、1942年に100歳という長寿で世を閉じた。
バーンズの「あなたたちの手は家族の数百数千倍の人を助ける手なんです」というセリフは、ヴェッチが日本で蒔いた種が、和や雅たちの手を経て、確かに何百、何千の患者の手元に届いたことを思い出させる。短い滞在が日本の看護界に大きな足跡を残し得たのは、ヴェッチが教えたのが看護「技術」ではなく、患者の傍らに居る者としての「在り方」だったからにほかならない。
・参考資料
平尾真知子「エディンバラ王立救貧院病院とアグネス・ベッチ」(『日本医史学雑誌』第36巻第3号、1990年)、坪井良子・平尾真智子「わが国初期の看護教育と『ハンドブック・オブ・ナーシング』」(『綜合看護』20巻4号、1985年)、坪井良子・平尾真智子ほか「日本の初期看護教育にF.ナイチンゲールが与えた影響」(『山梨医科大学紀要』17巻、2000年)、亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』(ドメス出版、1992年)、『特別企画展 近代看護の先駆者「明治のナイチンゲール 大関和」』展示図録、女子学院中学校・高等学校公式サイト「大関ちかの歩みをたどって」ほか
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など