「風、薫る」(NHK)では主人公たちに西洋式の看護をたたき込むバーンズ先生が登場。そのモチーフと見られている人物について調べた田幸和歌子さんは「日本で最初の看護婦を育てあげたのはドラマ同様、スコットランドから来たアグネス・ヴェッチだった」という――。

厳しいバーンズ先生のモチーフ

NHK連続テレビ小説「風、薫る」(脚本・吉澤智子、原案・田中ひかる)の第6週「天泣の教室」で、看護学校の開設から遅れること数カ月、ようやくスコットランドから到着した看護教師バーンズ(イギリス出身のエマ・ハワードが演じる)が登場した。

生徒たちに「This is not nursing(こんなのは看護になっていません)」を繰り返し、シーツ交換と掃除と換気とエプロン縫いと洋髪化と……。地味な反復だけで看護の根幹を叩き込んでいくさまが描かれた。陰で「天狗」「ナイチン地獄」と呼ばれながら、半年後には日本語を披露して生徒を驚かせる。この強烈なバーンズは、実在の人物をモチーフにしていると考えられる。スコットランド・エディンバラ生まれの看護婦、アグネス・ヴェッチ(1842〜1942年)である。

左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和
提供=医療法人知命堂病院
左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和

来日からわずか1年1カ月。それが、ヴェッチが日本の地を踏んでいた全期間だ。その1年で、彼女は日本最初のトレインド・ナース6人を含む看護婦28人を育て上げ、ナイチンゲール看護を日本に根づかせた。明治21年(1888年)10月26日の卒業時の集合写真には、中央のヴェッチを挟むように、向かって左隣に鈴木雅(直美のモチーフ)、右隣に大関和(りんのモチーフ)が並んでいる。

ナイチンゲール方式を学んだ才媛

ヴェッチは1842年、スコットランドのエディンバラに生まれた。1874年、設立されたばかりの旧エディンバラ王立救貧院病院看護学校に第一期生として入学する。同校はロンドンの聖トマス病院に設けられたナイチンゲール看護学校の卒業生によって設立された、いわばナイチンゲール方式の「分校」にあたる。

スコットランドのエディンバラ
写真=iStock.com/KevinAlexanderGeorge
スコットランドのエディンバラ

卒業時のヴェッチの成績証明書に残された評価は飛び抜けて高かった。「性格は一番優れている。まったく正直、特別に優しく親切である。彼女は病棟を家庭のようにする技術をもっている」(平尾真知子「エディンバラ王立救貧院病院とアグネス・ベッチ」、『日本医史学雑誌』第36巻第3号、1990年)。ヴェッチ自身が「病棟を家庭のようにする」思想で育ち、その思想を日本にもち込んだ。この一文は、後のバーンズ像を読み解く鍵となる。

卒業後はエディンバラ王立救貧院病院、続いてロンドンのセント・メアリー病院、新エディンバラ王立救貧院病院で勤務。1881年に自らの希望で病院を退職し、宣教医をしていた兄を頼って清朝に渡った。明治20年(1887年)9月、日本政府の招聘を受け「お雇い外国人」として来日。10月27日から帝国大学医科大学附属第一医院(現・東京大学医学部附属病院)の嘱託として勤務し、看病法講義と看病術実地練習を担当した。

中学受験で有名な女子校のルーツ

ヴェッチを迎え入れた「桜井女学校附属看護婦養成所」、ドラマの「梅岡女学校付属看護婦養成所」のモチーフは、明治19年(1886年)11月に設置された、日本で3番目の看護婦養成所である。桜井女学校は、現在、中学受験で「女子御三家」の一角とされる女子学院の前身のひとつで、明治9年(1876年)創立。ミッションスクールの先駆的存在だった。

先んじて明治18年に高木兼寛が設立した有志共立東京病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)、明治19年に新島襄が同志社で開いた京都看病婦学校があり、それぞれナイチンゲール方式の教育を受けたアメリカ人看護婦リード、リチャーズが指導にあたっていた。

「桜井女学校附属看護婦養成所」は3番目の開設だが、教師ヴェッチの赴任は設立翌年の1887年秋。それまでの約1年、英語が堪能だった生徒・峯尾えい(ドラマの松井エイのモチーフ)が臨時教師として、英語のテキストを訳しながら授業を進めていた。実技に関わる範囲はお手上げ状態だったというから、ドラマで生徒たちが翻訳作業に苦戦する設定は実情に近い。

大関和は28歳、鈴木雅は29歳

明治20年1月、洋館の校舎で授業が始まる。教育課程は学課1年・実習1年の通算2カ年。第一期生は8人。最年長は鈴木雅29歳、次いで大関和28歳。雅は夫を病で亡くした未亡人、和は黒羽藩家老の家に生まれ離婚を経た身。いずれも子をかかえての挑戦だった。

和は離婚後、上流階級との交流を経てキリスト教に入信、牧師・植村正久の説得で入学を決意した。海外のトレインド・ナースに関する情報は、大山捨松ら欧米帰りの女性たちからも得たとされる。ドラマで捨松(多部未華子)が看護婦に偏見を持っていたりんたちの背中を押す存在として描かれるのは、こうした史実の延長線上にある。

いきなり英語の教本の翻訳を

ドラマでも描かれたように、教科書はすべて英語の看護書で、和訳しながら学んでいくのが授業の根幹だった。看護史研究では、明治期の養成所で広く用いられた教本のひとつとして米国コネチカット看護学校編『ハンドブック・オブ・ナーシング』が知られ、その内容はナイチンゲール『看護覚え書』の思想と多くの点で一致する(平尾真知子・坪井良子らの研究による)。生徒たちにとって、英語の専門用語を日本語に置き換える作業は過酷だったが、それは同時に、ナイチンゲール思想を日本語の体に通す最初の作業でもあった。

フローレンス・ナイチンゲールの写真
フローレンス・ナイチンゲールの写真、『訪問カルテ』より、1850年代頃(写真=H. Lenthall/heritage auctions/PD US/Wikimedia Commons

直美のモチーフが授業を通訳した

そして秋、ヴェッチが第一医院に着任。マリア・ツルー(ドラマの宣教師メアリーのモチーフ)が、桜井の生徒たちを第一医院で実習させる手配を事前に整えていたためで、ヴェッチは桜井と第一医院の両方を担うことになった。

マリア・ツルーの写真
マリア・ツルーの写真、1874年2月5日、小檜山ルイ『アメリカ婦人宣教師』東京大学出版より(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

授業はもちろん英語で、最も英語が堪能だった鈴木雅が通訳を務めた。第一医院に近い駒込西片町(現・東京都文京区西片)の借家を寄宿舎にして、ヴェッチと生徒たちの共同生活が始まる。教師と生徒が一つ屋根の下で寝食をともにし、家事を分担しながら人格と協調性を育む。これがナイチンゲール方式の核心であり、バーンズが寮の家事まで生徒に踏み込んで指導する場面の根拠でもある。

教育を受けていない看病婦との違い

当時、病院で働いていた「看病婦」の多くは寡婦で、読み書きや算術といった基礎教育を受けていない人がほとんどだった。日本において「教育を受けた看護婦」はまだほぼ存在しなかったのだ。そこに、観察と記録、衛生と環境整備を看護の柱に据えるナイチンゲール方式が持ち込まれた衝撃は、現代の感覚で測れるものではない。バーンズが繰り返す「This is not nursing」の重さは、まずこの落差から発している。

ヴェッチの教育のすご味を伝える逸話が、明治21年5月29日に起きている。

ヴェッチの姿に明治の皇后は…

帝国大学医科大学附属病院の外科8号室に、大腿骨膜炎の重患の男児が収容された。骨と皮ばかりに痩せ衰え、室内には臭気が立ちこめる。施しようがないように見える病室に、ヴェッチは平然と乗り込んでいった。佐藤医長の許可を得て、隣の7号室を打ち抜いて看護婦の控え室を作り、徹底的に清潔法を施す。痩せ衰えた病児を母代わりとなって日夜介抱する看護婦の姿に、訪問した皇后(後の昭憲皇太后)も感動を抑えられなかったと、後に『昭憲皇太后 附女四書』が伝えている。

聖徳記念絵画館壁画『東京慈恵院行啓』(満谷国四郎画)、1887年(明治20年)5月9日、東京慈恵院を訪問した洋装の皇后(中央)
聖徳記念絵画館壁画『東京慈恵院行啓』(満谷国四郎画)、1887年(明治20年)5月9日、東京慈恵院を訪問した皇后(中央)(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons
洋装した昭憲皇太后(明治天皇の皇后・美子)
洋装した昭憲皇太后(明治天皇の皇后・美子)、1889年(写真=スミソニアン国立アジア美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

「環境を整える」「観察する」。バーンズが生徒に体で覚えさせようとしたナイチンゲール看護の二本柱を、ヴェッチ自身が現場で実演していたのだ。

大関和は卒業生総代、皇后に拝謁

10月26日、桜井女学校附属看護婦養成所の卒業式が行われた。当初の生徒8人のうち2人は退学しており、残る6人が日本初のトレインド・ナースとなる。大関和は皇后に看護法研究生総代として拝謁し、卒業後はそのまま第一医院の外科の看病婦取締(看護師長)に、鈴木雅は内科の看病婦取締に就任した。

ヴェッチは雅の卒業証書に「Miss Suzuki has won her task as Interpreter most officially and I consider her give to fitted to teach a class of nurse.(鈴木さんは、通訳者としての仕事を完遂した。彼女は、看護教師としても適している)」と署名入りで書き添えた。卒業時の集合写真でヴェッチが和と雅を左右に座らせたのは、自らの弟子のなかでも特に優秀で、信頼を置く二人を傍に置きたかったからだろう。

「風、薫る」一ノ瀬りんのモデル・大関和の写真
提供=医療法人知命堂病院
「風、薫る」一ノ瀬りんのモデル・大関和の写真

そして11月、ヴェッチは任期満了で帰国する。なおドラマでは半年後に流暢な日本語を披露するが、史実のヴェッチが日本語を話せるようになった形跡はない。本人なりに勉強し聴き取れる言葉も増えていただろうが、英語と「実演」で看護の本質を伝えて去っていった、というのが実像に近い。

日本滞在は1年だけだったが…

ヴェッチ離日後、和は第一医院で看病婦の2交代制など待遇改善を求める建議書を提出するが医師たちに受け入れられず、第一医院を去る。その後は新潟・高田の知命堂病院の看護婦長などを経て、東京に戻った。雅も明治24年(1891年)に第一医院を辞し、慈善看護婦会(後の東京看護婦会)を創設して、初の派出看護婦会を立ち上げた。

和は後に雅から経営を引き継ぎ、1909年には大関看護婦会を設立。著書『派出看護婦心得』『実地看護法』を世に問い、看護婦の質的向上と社会的地位の向上に生涯を捧げた。日清戦争での日本赤十字社看護婦の活躍、そしてスペイン風邪と関東大震災の襲来する未曾有の困難な時代を経て、看護婦は「卑しい職業」から「なくてはならない専門職」へと、社会の見方を一段ずつ押し上げていく。

故郷で100歳の長寿を全うした

ヴェッチ自身は離日後も世界各地で活動を続け、晩年に故郷エディンバラに戻り、1942年に100歳という長寿で世を閉じた。

バーンズの「あなたたちの手は家族の数百数千倍の人を助ける手なんです」というセリフは、ヴェッチが日本で蒔いた種が、和や雅たちの手を経て、確かに何百、何千の患者の手元に届いたことを思い出させる。短い滞在が日本の看護界に大きな足跡を残し得たのは、ヴェッチが教えたのが看護「技術」ではなく、患者の傍らに居る者としての「在り方」だったからにほかならない。

・参考資料
平尾真知子「エディンバラ王立救貧院病院とアグネス・ベッチ」(『日本医史学雑誌』第36巻第3号、1990年)、坪井良子・平尾真智子「わが国初期の看護教育と『ハンドブック・オブ・ナーシング』」(『綜合看護』20巻4号、1985年)、坪井良子・平尾真智子ほか「日本の初期看護教育にF.ナイチンゲールが与えた影響」(『山梨医科大学紀要』17巻、2000年)、亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』(ドメス出版、1992年)、『特別企画展 近代看護の先駆者「明治のナイチンゲール 大関和」』展示図録、女子学院中学校・高等学校公式サイト「大関ちかの歩みをたどって」ほか