中学受験で有名な女子校のルーツ
ヴェッチを迎え入れた「桜井女学校附属看護婦養成所」、ドラマの「梅岡女学校付属看護婦養成所」のモチーフは、明治19年(1886年)11月に設置された、日本で3番目の看護婦養成所である。桜井女学校は、現在、中学受験で「女子御三家」の一角とされる女子学院の前身のひとつで、明治9年(1876年)創立。ミッションスクールの先駆的存在だった。
先んじて明治18年に高木兼寛が設立した有志共立東京病院看護婦教育所(現・慈恵看護専門学校)、明治19年に新島襄が同志社で開いた京都看病婦学校があり、それぞれナイチンゲール方式の教育を受けたアメリカ人看護婦リード、リチャーズが指導にあたっていた。
「桜井女学校附属看護婦養成所」は3番目の開設だが、教師ヴェッチの赴任は設立翌年の1887年秋。それまでの約1年、英語が堪能だった生徒・峯尾えい(ドラマの松井エイのモチーフ)が臨時教師として、英語のテキストを訳しながら授業を進めていた。実技に関わる範囲はお手上げ状態だったというから、ドラマで生徒たちが翻訳作業に苦戦する設定は実情に近い。
大関和は28歳、鈴木雅は29歳
明治20年1月、洋館の校舎で授業が始まる。教育課程は学課1年・実習1年の通算2カ年。第一期生は8人。最年長は鈴木雅29歳、次いで大関和28歳。雅は夫を病で亡くした未亡人、和は黒羽藩家老の家に生まれ離婚を経た身。いずれも子をかかえての挑戦だった。
和は離婚後、上流階級との交流を経てキリスト教に入信、牧師・植村正久の説得で入学を決意した。海外のトレインド・ナースに関する情報は、大山捨松ら欧米帰りの女性たちからも得たとされる。ドラマで捨松(多部未華子)が看護婦に偏見を持っていたりんたちの背中を押す存在として描かれるのは、こうした史実の延長線上にある。
いきなり英語の教本の翻訳を
ドラマでも描かれたように、教科書はすべて英語の看護書で、和訳しながら学んでいくのが授業の根幹だった。看護史研究では、明治期の養成所で広く用いられた教本のひとつとして米国コネチカット看護学校編『ハンドブック・オブ・ナーシング』が知られ、その内容はナイチンゲール『看護覚え書』の思想と多くの点で一致する(平尾真知子・坪井良子らの研究による)。生徒たちにとって、英語の専門用語を日本語に置き換える作業は過酷だったが、それは同時に、ナイチンゲール思想を日本語の体に通す最初の作業でもあった。