ヴェッチの姿に明治の皇后は…
帝国大学医科大学附属病院の外科8号室に、大腿骨膜炎の重患の男児が収容された。骨と皮ばかりに痩せ衰え、室内には臭気が立ちこめる。施しようがないように見える病室に、ヴェッチは平然と乗り込んでいった。佐藤医長の許可を得て、隣の7号室を打ち抜いて看護婦の控え室を作り、徹底的に清潔法を施す。痩せ衰えた病児を母代わりとなって日夜介抱する看護婦の姿に、訪問した皇后(後の昭憲皇太后)も感動を抑えられなかったと、後に『昭憲皇太后 附女四書』が伝えている。
「環境を整える」「観察する」。バーンズが生徒に体で覚えさせようとしたナイチンゲール看護の二本柱を、ヴェッチ自身が現場で実演していたのだ。
大関和は卒業生総代、皇后に拝謁
10月26日、桜井女学校附属看護婦養成所の卒業式が行われた。当初の生徒8人のうち2人は退学しており、残る6人が日本初のトレインド・ナースとなる。大関和は皇后に看護法研究生総代として拝謁し、卒業後はそのまま第一医院の外科の看病婦取締(看護師長)に、鈴木雅は内科の看病婦取締に就任した。
ヴェッチは雅の卒業証書に「Miss Suzuki has won her task as Interpreter most officially and I consider her give to fitted to teach a class of nurse.(鈴木さんは、通訳者としての仕事を完遂した。彼女は、看護教師としても適している)」と署名入りで書き添えた。卒業時の集合写真でヴェッチが和と雅を左右に座らせたのは、自らの弟子のなかでも特に優秀で、信頼を置く二人を傍に置きたかったからだろう。
そして11月、ヴェッチは任期満了で帰国する。なおドラマでは半年後に流暢な日本語を披露するが、史実のヴェッチが日本語を話せるようになった形跡はない。本人なりに勉強し聴き取れる言葉も増えていただろうが、英語と「実演」で看護の本質を伝えて去っていった、というのが実像に近い。