「私の遺産は一切妻セツへ」
ただし、ハーンにとって、より切実であったのは、明らかに弟のジェームズとミンニーなどの3人の異母妹を意識しての、遺産相続問題であった。熊本における最後の年の夏、遺書は書き替えられた。二重封筒の外側には、「私の死去に際しては、私の妻なる小泉セツが所持する法的遺言状に記されている通り、封筒内記載の価値あるものは……一切、彼女が所有するものとする」と、前後に捺印して書かれている。
内封筒の表面には、「ラフカディオ・ハーンの最終的遺言状……私は彼女にこれを所持するように、また、封筒のここに日本語で署名するように求めた。明治二十七年七月七日 小泉節子」
封筒の中には、見事な筆跡で次のように書かれている。
日本 九州 熊本 一八九四年六月二十七日
これは、ラフカディオ・パトリシオ・ハーン――現在……英語教師――の最終的な遺言状である。
私の死に際して、私が所有しあるいは権利を有する、動産と不動産及び所持品一切を、我が子の母である小泉セツに、絶対的に遺贈する意思を表明する。さらに……私の現在の居住家屋中にある一切の物が、彼女の所有に帰すものと周知されることを望む。
ラフカディオ・パトリシオ・ハーン
帰化の決断を友人の西田に伝えた
封筒の日付は、中の遺言状の日付の10日後になっているが、遺言状を弁護士の増島六一郎に郵送して、意見を徴した後に封筒に入れたからである。ハーンはさらに、その1年後、相続も絡む帰化の決断を西田に伝える1カ月前に、住所を神戸のものとした遺言状(詳細内容不明)を書いた。この時には遺言の執行を確実にするために、遺言状を増島に保管させている。封筒の裏に「1895年6月11日の本日付『遺言執行』の手数料$15をラフカディオ・ヘルン様より受領」と増島の署名入りで記され、表には同じ日付で、最終遺言状なることをハーン自らが書いた。恐らく、セツに持たせたものであろう。
1940年新潟市生まれ。新潟大学人文学部で史学を専攻、コロンビア大学のM.A.学位(修士号1974)、M.Ed.学位(1978)を取得。一時期会社員、前後して高等学校教諭(世界史担当)。著書に『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988年)、その改定版となる『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)、『A Walk in Kumamoto:The Life & Times of Setsu Koizumi, Lafcadio Hearn’s Japanese Wife』(Global Books, 1997)、『わが東方見聞録―イスタンブールから西安までの177日』(朝日新聞社)がある
