小泉八雲ことラフカディオ・ハーンをモデルにしたヘブン(トミー・バストウ)と小泉セツをモデルとするトキ(髙石あかり)の物語、「ばけばけ」(NHK)。歴史家の長谷川洋二さんは「明治時代、日本に来た著名な西洋人でハーンのように帰化した人はほとんどいなかった」という――。

※本稿は、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)の一部を再編集したものです。

小泉八雲と妻セツ、長男・一雄(神戸時代)
写真提供=小泉家
小泉八雲と妻セツ、長男・一雄(神戸時代)

熊本で長男が生まれ、帰化を決意

結婚の法的手続きへの意向は、「杵築の夏の日」(編集部註:松江の教師時代にハーンと同僚の英語教師・西田千太郎と小泉セツで行った小旅行、このときにハーンとセツが事実婚したとされる)直後にベイカー宛書簡で示されて以来、強まりこそすれ曖昧にされることはなかった。一雄の誕生は、それを切実緊急な課題とする。生まれて3日後、異母妹のミンニー・アトキンソンに、「もちろん、私にとって全世界が変わりました」と書き、後年のことだが(アメリカの新聞社での同僚だったジャーナリスト)ビスランドに「(一雄は)生まれ変わった私自身です」と書いているほどの熱愛が、セツへのおもんぱかりに加わったからであった。

それ以降ハーンが、その件での問い合わせや相談に、また内心を打ち明けて書いた文章は、膨大な量に上る。そして、一連の行動や手続きは、『東の国から』出版後の8月から翌年――神戸での最終年(1896)――の2月にかけてとられた。東京への転居に先立つ同年6月から2カ月の間、松江と杵築で帰省とくつろぎの日々を送ったが、それは、結婚後5年にして迎えた大団円の観がある。

在日西洋人で帰化した珍しい例

結果として、名の知れた西洋人の中で、法律上の結婚の際に帰化したのは――富裕社会と化した現代を別とすれば――後にも先にもハーンだけであった。確かに帰化には、彼の日本への愛が関わっている。松江に住むことわずか3カ月にして書かれた(アメリカの作家)アリス・ロリンズへの手紙の中に、「私はパスポートに絡む煩雑な手続きを取り除くために、日本国民になろうという気になっているのです。恐らく、いずれそうするでしょう。私は今でも、ほとんど日本人なのですから」とある。

そして、こうした気楽な日本贔屓びいきが熊本体験で吹き飛んだ後の神戸で、彼の心の内なる文化の振子が、西洋から日本へと大きく振り戻された時に、次のように言い表わされてもいる。

我々が文明(西洋文明)と呼んでいるものの一切を、これほどまでに憎悪し得るとは、思いもよらないことでした。それが如何に醜悪であるかは、古代(古代ギリシア)以来に存在した唯一の文明国である「古い日本」での、長い逗留とうりゅうなしには、考えも及ばなかったことでしょう。

セツを英国籍に入れる案は選ばず

ハーンは神戸に移る前の夏、しばらく文通で親しんでいたメイソンの家族と、メイソンの東京の家や鎌倉の海水浴場などで、団欒だんらんの幾日かを過ごしている。このメイソンは、シカコという日本人妻を英国籍に入れ、二人の間の子供たちともども、日本で永住することを考えていた。しかしハーンは、これで済ませる事が出来なかった。セツは養父母と一体であり、さらに養祖父と実母の扶養を背負っていた。また、セツとハーンはともに、生存すら危うい金銭的窮地を踏んできている。

それにハーンの性格が絡んでくる。後年、東京帝国大学を解雇された時に、家族の将来についての不安に取りつかれた。その気遣いの聞き手となったミッチェル・マクドナルドが、ハーンを評して「苦労性の天才」と呼び、セツも賛同しているが、帰化に関しても、その「苦労性」――過度なまでの気遣い――を考え合わせて理解しなければならない。セツは後年「気の毒な程(家族を)心配してくれました。帰化の事でも好まない就職の事でも皆(そうでした)」と語っている。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
写真=GRANGER/時事通信フォト
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

この間の事情を最もよく知る者は、横浜に住んで当時の国際結婚の実情に通じ、たまたま『』を献呈されている雨森信成あめのもりのぶしげであった。ハーンの没した翌年の『アトランティック・マンスリー Atlantic Monthly』(Vol. 96, 1905)に掲載された「人間ラフカディオ・ハーン Lafcadio Hearn, the Man」で、彼は次のように述べている。

帰化するには養子縁組しかない

家族のために懸命に働き、大いに苦しみもした。彼らを思ってだけ、彼は「地獄」にも住み、囚人懲罰用の「踏車ふみぐるま」の苦役につき、もし独身でいたならば、決して耐え得なかった艱難かんなんをも忍んだのである。……私に次のように書いて来たことがある。「私は私一人のものではなく、私自身よりも幸福なほかの者たちのものでもあるわけで、そうでなかったら、私は僧になりたいと思っています」。

事実、彼が帰化して日本国民になったのは、ただただ、生存が彼にかかっている「より幸福なほかの者たち」のためであったのである。条約改正が発効する前、列強が治外法権を持っていた時期のことで、日本女性を妻に持つ外国人の遺言適応のない財産は、日本の遺族ではなく、本国の親族の手に渡ることになっていた。ハーンはこの事を知っていたがために、帰化することによって議論の余地なく、己がかくばかりに愛する家族に、遺贈されるように望んだのである。

当時の日本には、養子縁組による以外の帰化の法律がなかった。こうした状況下にあって、予想される困難を前もって除去する唯一の方途は、妻の父の家族の養子となることであった。それ故に彼はその通りにして、小泉八雲という日本名を名告なのったのである。この問題に関して、以上の記述を立証するために、私宛の手紙から引用することには、支障があろう……しかし、家族の生活への気遣いが、彼の日本国籍取得の唯一の動機であったと言う立場に私はいる。当時この件で相談に乗る、少数の友人の一人であったからである。

セツへの財産遺贈のための遺書

ハーンが、結婚を合法化し遺産相続を確実にするために、どういう行動をとり、友人たちにどう書き送ったかを見れば、雨森の理解が正しかったことが分かる。すでに熊本時代に三度も市役所に出向き、長崎の領事に手紙で問い合わせもしている。そして、法的な空白を埋めるための措置として、財産遺贈のための遺書を書いているが、今日知られる最も古いものは、熊本到着から7カ月後の「一八九二・六・一五付」で、すでに極めて念入りなものである。

ハーンは初めから、セツないし家族の欧米での居住を排除していた。それには一部にせよ、ダブリンでギリシア人の母ローザの陥った悲惨が、思われてのことであったかも知れない。1893年5月のミンニー・アトキンソン宛の手紙に、「私は妻をヨーロッパに連れて行くことは出来ません。西洋の生活に慣れさせることは、不可能です。実際、それを試みることすら残酷と言えましょう」と書いた。翌年1月のチェンバレン宛書簡では、「日本以外で家庭を営むいかなる状況も……私には想像することが出来ません。事実、そのような可能性を、考えて見たことすらないのです」と、より明確に意思表明している。

43歳で得た長男を守りたかった

一方、41歳で結婚し、43歳で第1子を持ったハーンは、自分の命の不確実さを意識し出していた。今掲げたチェンバレンの手紙に、「ただ残酷な見込みとして死があります。何しろそうありたいと思うよりはるかに、私は年老いているからです。その場合は家族にとって、英国籍などは全く無用となります」と続けられた。

小泉八雲とセツの長男「一雄」の写真
小泉八雲とセツの長男「一雄」の写真(写真=Lafcadio Hearn, by Nina H. Kennard/PD US/Wikimedia Commons

また、同じ時期に書かれたと思われるミンニーへの手紙に、「……(英国籍ならば)法律によって、2人はイギリス国民となり、日本で土地を所有したり商売をする権利を失い、パスポートなしに内陸部に住むことすら出来なくなるのです」とも書いている。

「私の遺産は一切妻セツへ」

長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)
長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)

ただし、ハーンにとって、より切実であったのは、明らかに弟のジェームズとミンニーなどの3人の異母妹を意識しての、遺産相続問題であった。熊本における最後の年の夏、遺書は書き替えられた。二重封筒の外側には、「私の死去に際しては、私の妻なる小泉セツが所持する法的遺言状に記されている通り、封筒内記載の価値あるものは……一切、彼女が所有するものとする」と、前後に捺印なついんして書かれている。

内封筒の表面には、「ラフカディオ・ハーンの最終的遺言状……私は彼女にこれを所持するように、また、封筒のここに日本語で署名するように求めた。明治二十七年七月七日 小泉節子」

封筒の中には、見事な筆跡で次のように書かれている。

日本 九州 熊本  一八九四年六月二十七日

これは、ラフカディオ・パトリシオ・ハーン――現在……英語教師――の最終的な遺言状である。

私の死に際して、私が所有しあるいは権利を有する、動産と不動産及び所持品一切を、我が子の母である小泉セツに、絶対的に遺贈する意思を表明する。さらに……私の現在の居住家屋中にある一切の物が、彼女の所有に帰すものと周知されることを望む。

ラフカディオ・パトリシオ・ハーン

帰化の決断を友人の西田に伝えた

封筒の日付は、中の遺言状の日付の10日後になっているが、遺言状を弁護士の増島六一郎ますじまろくいちろうに郵送して、意見を徴した後に封筒に入れたからである。ハーンはさらに、その1年後、相続も絡む帰化の決断を西田に伝える1カ月前に、住所を神戸のものとした遺言状(詳細内容不明)を書いた。この時には遺言の執行を確実にするために、遺言状を増島に保管させている。封筒の裏に「1895年6月11日の本日付『遺言執行』の手数料$15をラフカディオ・ヘルン様より受領」と増島の署名入りで記され、表には同じ日付で、最終遺言状なることをハーン自らが書いた。恐らく、セツに持たせたものであろう。