セツへの財産遺贈のための遺書
ハーンが、結婚を合法化し遺産相続を確実にするために、どういう行動をとり、友人たちにどう書き送ったかを見れば、雨森の理解が正しかったことが分かる。すでに熊本時代に三度も市役所に出向き、長崎の領事に手紙で問い合わせもしている。そして、法的な空白を埋めるための措置として、財産遺贈のための遺書を書いているが、今日知られる最も古いものは、熊本到着から7カ月後の「一八九二・六・一五付」で、すでに極めて念入りなものである。
ハーンは初めから、セツないし家族の欧米での居住を排除していた。それには一部にせよ、ダブリンでギリシア人の母ローザの陥った悲惨が、思われてのことであったかも知れない。1893年5月のミンニー・アトキンソン宛の手紙に、「私は妻をヨーロッパに連れて行くことは出来ません。西洋の生活に慣れさせることは、不可能です。実際、それを試みることすら残酷と言えましょう」と書いた。翌年1月のチェンバレン宛書簡では、「日本以外で家庭を営むいかなる状況も……私には想像することが出来ません。事実、そのような可能性を、考えて見たことすらないのです」と、より明確に意思表明している。
43歳で得た長男を守りたかった
一方、41歳で結婚し、43歳で第1子を持ったハーンは、自分の命の不確実さを意識し出していた。今掲げたチェンバレンの手紙に、「ただ残酷な見込みとして死があります。何しろそうありたいと思うよりはるかに、私は年老いているからです。その場合は家族にとって、英国籍などは全く無用となります」と続けられた。
また、同じ時期に書かれたと思われるミンニーへの手紙に、「……(英国籍ならば)法律によって、2人はイギリス国民となり、日本で土地を所有したり商売をする権利を失い、パスポートなしに内陸部に住むことすら出来なくなるのです」とも書いている。