兄のDAIGOが実父を殺す惨状

これ以後、「濃姫」についての記録は一次史料には見つからない。だが、さまざまに心を痛めていことは容易に想像がつく。

濃姫之像(清洲城模擬天守横)
濃姫之像(清洲城模擬天守横)(写真=立花左近/屋外美術/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

「濃姫」の父の道三は、上に記したように信長を高く評価する一方、嫡男で「豊臣兄弟!」にはDAIGOが扮してほんの一瞬登場した義龍のことは、ほとんど評価しなかった。次男や三男のほうが賢いと考えていたようで、義龍は自身が廃嫡されるのではないかと恐れるようになったという。

こうして道三と義龍との親子の対立は深まり、弘治2年(1556)、両者はついに長良川で激突した。兵力で劣る道三は破れ、首を切り落とされた。このとき信長も道三に加勢するために出陣したが、道三を討った義龍軍に攻め寄せられ、退却している。

その後、義龍の前に道三の首が運ばれてきたというが、父の首を見た息子はどんな心持だったのだろうか。その義龍は5年後の永禄4年(1561)に、数え33歳で病死している。

家臣に城を奪い取られた龍興の失態

義龍が急死した後を継いだ嫡男の龍興は、数え14歳にすぎなかった。時に桶狭間合戦の翌年で、祖父の道三が力量を見抜いた信長の美濃攻略への意欲が、いやおうにも高まった時期であった。いまでいえば中学生の年齢で、そういう状況にある家を継ぐのは荷が重かったに違いない。

また、戦国時代の女性にとっては、和睦の条件として他家に嫁ぐ際は、嫁ぎ先の夫が実家の父や兄弟と対立し、時に殺し合うのも珍しいことではなく、そうした覚悟をしているのは当然のことだった。とはいえ、数年前には父が兄に殺され、その兄が夫と対立し、兄の死後は甥っ子が夫に攻められている。心穏やかでいられたとは到底思えない。

その龍興だが、信長の攻勢の前に、少しずつ追い詰められていった。永禄6年(1563)には、家臣だった竹中重治(半兵衛)の伏兵策のおかげもあって、新加納合戦で織田軍を破ったこともあった。だが、翌年2月には、留守にしていたあいだに本拠地の稲葉山城(岐阜県岐阜市)を、半兵衛らに奪い取られるという失態を侵している。

稲葉山城には半年で帰還を許されたものの、領主が本城を占拠されてしまうという事態を受け、美濃の国内における龍興の評判は大きく下がることになった。