織田信長には濃姫、豊臣秀吉には北政所という正室がいたことが知られているが、徳川家康は築山殿を死なせて以後、妻の存在が見えにくい。『家康を愛した女たち』を書いた植松三十里さんは「築山殿が死んだ年、家康は武田家家臣の娘、阿茶の局と出会い、側室に。彼女は、かなり特別扱いされていることからしても、相当“仕事のできる”女性だったのでは」という――。
徳川家康の側室・阿茶局(1555~1637)の肖像画(写真=雲光院像(德川記念財団蔵)・江戸時代/PD-Japan/Wikimedia Commons)
徳川家康の側室・阿茶局(1555~1637)の肖像画(写真=雲光院像(德川記念財団蔵)・江戸時代/PD-Japan/Wikimedia Commons

側室に経産婦が多かったのは確実に子を産ませたかった?

徳川家康には、正室の築山殿、継室である羽柴秀吉の妹朝日姫がいて、その他にもたくさんの側室がいました。20人近くいた、といわれています。

男子を産んだ側室たちをざっと挙げてみても、於愛の方(西郷局)は、夫の戦死後に子連れで家康の側室になり、3男・徳川秀忠(2代将軍)と4男・松平忠吉(清洲藩祖)を産んでいるし、一度は穴山信邦(穴山信君の弟)に嫁いだともいわれる於都摩の方(下山殿)は、武田家滅亡後に家康の側室になって武田家を継承することになる5男・武田信吉(水戸徳川家以前の水戸藩主)を産んでいます。鋳物職人の未亡人だった於茶阿の方(茶阿局)は6男・松平忠輝と7男・松千代を産み、やはり後家の於亀の方も徳川義直(尾張藩祖)を産んでいます。

これらの結果を見てわかるように、徳川家康は「後家好き」です。「熟女好み」とも言えます。

これについては、実利主義者の家康が「経産婦をよしとした」という説があります。「一度子供を産んだことがある人なら次もまた産めるだろう」ということで、そういう女性を家康が好んだという見方です。でも、私はそれはどうかなと思います。妻を選ぶときにそこまでドライなものかと思うし、もっと感情面から、そういう結果となったような気がします。

後家好みには幼くして生き別れた母親の影響があるのでは

家康の「後家好き」には、母親である於大の方(伝通院)の存在が大きく影響していると、私は考えています。

於大の方は岡崎で家康を産んだ後、松平家から離縁されて、実家に帰されました。彼女の実家である刈谷の水野家が、今川から離反し、織田方に転じたからですが、その後、於大の方は、ドラマ「どうする家康」でも描かれたように、知多の久松俊勝に再縁しています。

久松家は、織田の人質として熱田にいた幼い家康に物心さまざまな援助をしてくれましたが、家康はそのありがたみとともに、やはり親子別れの悲しさを噛みしめながら成長したと思います。そして桶狭間後に家康は、久松俊勝の勧めもあって今川から離反、織田と同盟し、久松は家康に臣従。久松家で於大が産んだ3人の男子(久松三兄弟)は家康の弟として「松平」を名乗りました。その真ん中が死後、築山殿の隣に葬られた松平康俊です。