自分や母親のように苦労を知っている女性を好んだのでは

於大は水野家に出戻ったときには、当主で兄の水野信元とはいい関係ではなかったと、私は考えています。於大のいた場所は刈谷の「椎の木屋敷」といって、いわば霊場のような場所で、そこに閉じ込められるように暮らしました。於大は、そんな仕打ちをする兄に反発しただろうし、その分、いろいろ苦労も多かったはずです。

家康は自分も幼いころから苦労してきているだけに、そういう母の苦労が身に沁みていたのでしょう。

私は『家康を愛した女たち』という小説のなかで、阿茶局(雲光院)というやはり側室のひとりに、こんな台詞を言ってもらいました。

「大御所さまの側室には、私のような子持ちの寡婦が、ほかにもおります。世間知らずの若い娘より、苦労した女をお好みになるのは、知らず知らずのうちに、母上さまのことが響いているのかもしれません」

と。私なりの家康の女性観を述べてもらったかっこうになります。冒頭で家康の子を産んだ側室たちを列挙しましたが、長男・信康を産んだ築山殿を家康は殺してしまい、そして次男の結城秀康(初代福井藩主)を産んだのは於万の方(長勝院)という女性ですが、家康はこの母子ともに出産後すぐに遠ざけてしまっています。於万の方は知鯉鮒ちりふ明神の社人(永見吉英)の娘で、それなりに令嬢育ち。築山殿同様に、苦労を知らないお嬢さまはあまり好きじゃなかったのかな? と想像であるけれど、そう思います。

身分の高い女を側室に求めた秀吉とは真逆の女性観

家康は「後家好み」であると同時に、身分の高い女も好まなかったのだと思います。これは家柄のよい女を漁るように求め続けた秀吉と好対照をなしています。そこにも家康の女性観がよくにじみ出ていると思うのです。

先述の阿茶局は、父親の飯田直政がもともと武田の家臣で、それが今川家に移った人。その今川のところで成長し、結婚したのも今川家臣の神尾忠重という人ですが、この夫がふたりの子供を残して死んでしまう。子供を抱えて途方に暮れ、路頭にも迷ったのかどうかわかりませんが、築山殿が死んでしまった天正7年(1579)に家康と出会い、側室になっています。

阿茶は武芸と馬術にもすぐれていたといい、秀吉と全面対決した小牧・長久手の戦いには、家康は陣中に阿茶をともなっています。この陣中で阿茶は懐妊するのですが、流産してしまい、以後、家康の子を宿すことはありませんでした。