信長は2度目の夫の可能性
「濃姫」とは江戸時代に成立した『絵本太閤記』などに登場する名で、美濃の姫という意味だと思われ、おそらく実名ではない。江戸時代のほかの史料には「帰蝶」「胡蝶」、または「鷺山殿」などと記されているが、ここでは便宜上、「濃姫」に統一する。
太田牛一の『信長公記』には、信長が数え15歳だった天文17年(1548)のできごととして、「平手政秀の働きで、織田三郎信長を斎藤山城守道三の婿とする縁組がととのい、道三の娘を尾張に迎えた」(中川太古訳、以下同)とだけ書かれている。名前は記されていないが、これが「濃姫」である。
この時期、信長の父の信秀は勢力拡大をはかって斎藤道三と再三、小競り合いを重ねた末に、信長の教育係だった重臣の平手政秀の仲介で和睦。この縁組がまとまったという。『美濃国諸旧記』によれば天文4年(1535)の生まれで、信長より1つ年下になる。
だが、「濃姫」にとっては、この若さで再婚だった可能性が高い。道三はもともと美濃の守護、土岐頼芸の重臣で、頼芸は兄の頼武から家督を奪っていた。頼武の子の頼充は美濃への復帰をめざしたが、頼芸と道三はそれを阻止。攻防の結果、頼充が攻勢に出て、天文15年(1546)に両者は和睦した。その条件が、いずれ頼充に家督を戻す前提で、道三の娘を頼充に嫁がせるというものだった。しかし、天文16年(1547)に頼充は死去。道三の娘は未亡人になった。この娘が「濃姫」の可能性が高い。
そうだとすると、最初に嫁したのは守護の後継ぎだったのに対して、2度目の結婚の相手は、そのころ「大うつけ」と噂されていた信長だから、かなり格落ちした感があったのではないだろうか。
本当に当たった斉藤道三の予言
その信長は天文22年(1553)4月、聖徳寺(愛知県一宮市)で道三と対面した。『信長公記』には次のように記されている。
「斎藤山城守道三から、『富田の寺内町正徳寺まで出向きますので、織田上総介殿もここまでお出でくだされば幸いです。対面いたしたい』と言ってきた。そのわけは、近頃、信長を妬んで、『婿殿は大馬鹿者ですぞ』と人々が道三に面と向かって言っていた」
その後、道三一行が隠れている前を、信長は腰の周りに瓢箪を7つも8つもぶら下げ、虎革と豹革を4色に染め分けた半袴をはいた姿で行列を率いて通った。つまり、かなりぶっ飛んだパンクな格好だったのだが、
「宿舎の寺に着いたところで、屏風を引きまわし、生まれて初めて髪を折り曲げに結い、いつ染めおいたか知る人もない褐色の長袴をはき、これも人に知らせず拵えておいた小刀を差した。この身支度を家中の人々は見て、『さては、近頃の阿呆ぶりは、わざと装っていたのだな』と肝をつぶし、誰もがしだいに事情を了解した」
立派ないでたちで現われた信長の力量を見抜いた道三は帰途、家臣とこんなやりとりをした。「(家臣が)『どう見ても信長殿は阿呆でございますな』と言った。道三は『だから無念だ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになろう』とだけ言った」。