NHK大河ドラマになぜか不在の「信長の妻」
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」を見て、いつも不思議に感じていることがある。織田信長(小栗旬)はプライベートでは決まって妹の市(宮﨑あおい)と2人で、くつろいで本音を吐露する相手は市だけのように見える。
木下藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)と弟の小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)が、信長への取次を頼む相手も市だ。たとえば第6回「兄弟の絆」(2月15日放送)。鵜沼城(岐阜県各務原市)で人質になっている兄の藤吉郎を救いたい小一郎は、信長を説得してほしいと、市に頼み込んだ。
市は「私には兄上を諌めることなどできぬ。力にはならず、すまぬ」と断ったが、ともかく、信長に執り成してもらう相手は市なのである。信長に妻がいなかったのだろうか。そんなはずはない。信長には正室として、斎藤道三の娘のいわゆる「濃姫」がいた。むろん、側室もいたが、「豊臣兄弟!」にはそういう影がまったく感じられない。「濃姫」役の女優も発表されていないので、今後も出る予定はないのだろう。
だが、信長にとって美濃(岐阜県南部)攻略が悲願だったことを考えると、「濃姫」が現れないのも仕方ない、という気にもさせられる。
信長は2度目の夫の可能性
「濃姫」とは江戸時代に成立した『絵本太閤記』などに登場する名で、美濃の姫という意味だと思われ、おそらく実名ではない。江戸時代のほかの史料には「帰蝶」「胡蝶」、または「鷺山殿」などと記されているが、ここでは便宜上、「濃姫」に統一する。
太田牛一の『信長公記』には、信長が数え15歳だった天文17年(1548)のできごととして、「平手政秀の働きで、織田三郎信長を斎藤山城守道三の婿とする縁組がととのい、道三の娘を尾張に迎えた」(中川太古訳、以下同)とだけ書かれている。名前は記されていないが、これが「濃姫」である。
この時期、信長の父の信秀は勢力拡大をはかって斎藤道三と再三、小競り合いを重ねた末に、信長の教育係だった重臣の平手政秀の仲介で和睦。この縁組がまとまったという。『美濃国諸旧記』によれば天文4年(1535)の生まれで、信長より1つ年下になる。
だが、「濃姫」にとっては、この若さで再婚だった可能性が高い。道三はもともと美濃の守護、土岐頼芸の重臣で、頼芸は兄の頼武から家督を奪っていた。頼武の子の頼充は美濃への復帰をめざしたが、頼芸と道三はそれを阻止。攻防の結果、頼充が攻勢に出て、天文15年(1546)に両者は和睦した。その条件が、いずれ頼充に家督を戻す前提で、道三の娘を頼充に嫁がせるというものだった。しかし、天文16年(1547)に頼充は死去。道三の娘は未亡人になった。この娘が「濃姫」の可能性が高い。
そうだとすると、最初に嫁したのは守護の後継ぎだったのに対して、2度目の結婚の相手は、そのころ「大うつけ」と噂されていた信長だから、かなり格落ちした感があったのではないだろうか。
本当に当たった斉藤道三の予言
その信長は天文22年(1553)4月、聖徳寺(愛知県一宮市)で道三と対面した。『信長公記』には次のように記されている。
「斎藤山城守道三から、『富田の寺内町正徳寺まで出向きますので、織田上総介殿もここまでお出でくだされば幸いです。対面いたしたい』と言ってきた。そのわけは、近頃、信長を妬んで、『婿殿は大馬鹿者ですぞ』と人々が道三に面と向かって言っていた」
その後、道三一行が隠れている前を、信長は腰の周りに瓢箪を7つも8つもぶら下げ、虎革と豹革を4色に染め分けた半袴をはいた姿で行列を率いて通った。つまり、かなりぶっ飛んだパンクな格好だったのだが、
「宿舎の寺に着いたところで、屏風を引きまわし、生まれて初めて髪を折り曲げに結い、いつ染めおいたか知る人もない褐色の長袴をはき、これも人に知らせず拵えておいた小刀を差した。この身支度を家中の人々は見て、『さては、近頃の阿呆ぶりは、わざと装っていたのだな』と肝をつぶし、誰もがしだいに事情を了解した」
立派ないでたちで現われた信長の力量を見抜いた道三は帰途、家臣とこんなやりとりをした。「(家臣が)『どう見ても信長殿は阿呆でございますな』と言った。道三は『だから無念だ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになろう』とだけ言った」。
兄のDAIGOが実父を殺す惨状
これ以後、「濃姫」についての記録は一次史料には見つからない。だが、さまざまに心を痛めていことは容易に想像がつく。
「濃姫」の父の道三は、上に記したように信長を高く評価する一方、嫡男で「豊臣兄弟!」にはDAIGOが扮してほんの一瞬登場した義龍のことは、ほとんど評価しなかった。次男や三男のほうが賢いと考えていたようで、義龍は自身が廃嫡されるのではないかと恐れるようになったという。
こうして道三と義龍との親子の対立は深まり、弘治2年(1556)、両者はついに長良川で激突した。兵力で劣る道三は破れ、首を切り落とされた。このとき信長も道三に加勢するために出陣したが、道三を討った義龍軍に攻め寄せられ、退却している。
その後、義龍の前に道三の首が運ばれてきたというが、父の首を見た息子はどんな心持だったのだろうか。その義龍は5年後の永禄4年(1561)に、数え33歳で病死している。
家臣に城を奪い取られた龍興の失態
義龍が急死した後を継いだ嫡男の龍興は、数え14歳にすぎなかった。時に桶狭間合戦の翌年で、祖父の道三が力量を見抜いた信長の美濃攻略への意欲が、いやおうにも高まった時期であった。いまでいえば中学生の年齢で、そういう状況にある家を継ぐのは荷が重かったに違いない。
また、戦国時代の女性にとっては、和睦の条件として他家に嫁ぐ際は、嫁ぎ先の夫が実家の父や兄弟と対立し、時に殺し合うのも珍しいことではなく、そうした覚悟をしているのは当然のことだった。とはいえ、数年前には父が兄に殺され、その兄が夫と対立し、兄の死後は甥っ子が夫に攻められている。心穏やかでいられたとは到底思えない。
その龍興だが、信長の攻勢の前に、少しずつ追い詰められていった。永禄6年(1563)には、家臣だった竹中重治(半兵衛)の伏兵策のおかげもあって、新加納合戦で織田軍を破ったこともあった。だが、翌年2月には、留守にしていたあいだに本拠地の稲葉山城(岐阜県岐阜市)を、半兵衛らに奪い取られるという失態を侵している。
稲葉山城には半年で帰還を許されたものの、領主が本城を占拠されてしまうという事態を受け、美濃の国内における龍興の評判は大きく下がることになった。
だから大河ドラマには登場しない
その後、家臣の寝返りが相次ぎ、永禄8年(1565)8月には信長の攻勢を防ぐ最前線だった犬山城(愛知県犬山市)が落城。龍興は次第に追い詰められていった。
永禄10年(1567)には、家老だったいわゆる「西美濃三人衆」の稲葉良通、氏家直元、安藤守就がそろって信長に内応し、ついに稲葉山城は落城して、信長の手に渡った。龍興は越前(福井県北東部)の朝倉義景のもとに逃れたが、6年後に戦闘で討ちとられている。まだ数え26歳だった。
その間、「濃姫」がどのようにすごしていたのか、たしかなことはわからない。戦国女性の心中を現代人の感覚で安易に忖度するのもいかがなものかと思いつつも、相当に苦しく複雑であったことは、容易に想像される。そうだとすれば、信長がくつろいで本音を吐露する相手にはなりにくかっただろう。
信長の相手が妹の市でいいのかどうかは難しいところだが、「濃姫」が登場しないのは、それなりに理があるように思えるのである。