若い衆と続けた“交換日記”

東関親方――元幕内・潮丸(うしおまる)は1978年、静岡県静岡市に生まれた。中学時代は“静岡のドカベン”の異名を持つ、将来を嘱望された野球少年。生徒会長も務めた。相撲経験はなかったものの、先代東関親方(元関脇・高見山)の熱烈なスカウトを受け、「母に楽をさせてやりたい」と15歳で角界入りを決意。94年春場所で初土俵を踏んだ。

当時は空前絶後の大相撲ブーム。潮丸は入門後、若貴兄弟のライバルだった横綱・曙の付け人となる。02年初場所で十両に昇進。同年名古屋場所では十両優勝を果たした。1つ年下の真充さんと結婚したのは、07年のことである。

転機は09年。先代親方が定年退職を迎えるにあたり、部屋の後継問題が浮上したのだ。当時、継承資格のあった部屋の関取は、潮丸と、その弟弟子である高見盛の2人のみ。

「若い衆の居場所をなくすわけにはいかない」

潮丸は、部屋を存続させるため、同年夏場所で現役を引退。31歳で東関部屋を継承する。

「横綱を輩出した名門の部屋ですし、私たちもいつか大関、横綱の使者を迎えたいねと」(真充さん)

新人師匠の東関がまず始めたのは、幕下以下の若い衆との“交換日記”。相撲界では珍しい試みだった。

「書くのは慣れていないだろうけど、頭の整理になるし、役立つ時が来るから」

そう言って東関は、弟子に1冊ずつノートを手渡した。本場所が始まると、弟子たちはその日の取組を日記で振り返る。東関は必ず当日のうちに全員分の返事を書いた。歳月とともにノートは束となり、力士たちの糧となった。

一方、先代の所有する墨田区の部屋へ通っていた東関は17年末、葛飾区柴又の地に、自宅を兼ねた相撲部屋を新築。同じ年、妻の真充さんが待望の初子を胎内に宿す。前途洋々。病魔が鎌首をもたげたのは、そんな矢先だったのだ。

「もうすぐ子供が生まれるし、これを機にきちんと検査をしておこうか」

東関が人間ドックを受診したのは、18年1月初旬のこと。たまに咳が出る以外、健康には何の不安も感じていなかった。

1月31日、真充さんが2890グラムの元気な女の子を出産すると、東関は顔をほころばせて喜んだ。それと前後して検査結果が届く。両肺に多数の結節(異常を示す陰影)があり、精密検査を促す内容だった。

2月初旬以降、東関は自宅から通いやすい大手総合病院で検査を重ねたが、原因は不明。経過観察の日々が続いた。東関の励みになっていたのは、健やかに育つ愛娘の存在だった。

「夫は地方場所や巡業などで家を空けることが多いため、自宅で娘と過ごす時間をとても楽しみにしていました。体調のことは気がかりでしたが、大きな病院に診てもらっている安心感がありました」(真充さん)

だが、夏頃から東関は歩くと息切れし、秋には知人と焼肉に出かけても、帰宅すると「胃が痛くて食べられなかった」と話すようになる。頭部を触ると、ボコボコとしたできものも見つかった。