大戦略の立案者、統治者としての諸葛亮の凄さ

208年、赤壁の戦いのあとに、諸葛亮は軍師中郎将に任命されますが、実際の業務は内政責任者であり、長沙、桂陽、零陵の3郡の監督と租税徴収などを担当しました。

劉備軍団が成都を占領したあとも、左将府事として兵士の確保と軍糧の補給業務を中心に活動しています。221年に劉備が皇帝となり、孔明も丞相となりますが、諸葛亮は軍事指揮官ではなく、政治行政の統治担当者だったといえるでしょう。

「諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、官職を少なくし、時代にあった政策に従い、まごころを開いて、公正な政治を行った。忠義をつくし、時代に利益を与えたものは、仇であっても必ず賞を与え、法律を犯し、職務怠慢な者は、身うちであって、必ず罰した」

「罪に服して反省の情をみせたものは、重罪人でも必ずゆるしてやり、いいぬけをしてごまかす者は、軽い罪でも必ず死刑にした。善行は小さなことでも必ず賞し、悪行は些細なことでも必ず罰した」

「あらゆる事柄に精通し、物事はその根源をただし、建前と事実が一致するかどうか調べ、うそいつわりは、歯牙にもかけなかった」(いずれも書籍『正史三国志蜀書』)

「孔明は、法正、劉巴、李厳、伊籍らと協力して、「蜀科」と呼ばれる法律を制定、劉璋時代の弛んだ政治に狎れた人心を引き締めている」(書籍『正史三国志英雄銘銘伝』)

諸葛亮は優秀な人物の協力を得て、国家としての蜀を機能させる法律を制定しています。彼の制定した法律で、蜀は統治の基本形を得たとも言えるのです。また彼の死後、政治のトップとして蜀を保った蒋エン、費イなどの人物は孔明が抜擢した人材でした。

法律はその国の基本行動を制定するもので、政治統治者として公平無私に判断をすることは、法律に従う庶民に強い納得感を与えます。これが逆に、厳しい法律を課しながらも身内だけ優遇をして甘ければ、庶民に不満は爆発して、黙っていないでしょう。

現代ビジネスパーソンは、国家の法律は作らなくとも組織の就業規定や会社のルールを作ることはあります。そのときに重要なのは、建設的な意欲や行動が加速されるルールであること、自ら模範を示すことです。

ルールを作った者が自ら守らなければ、当然他の人も従うことが馬鹿らしくなります。諸葛亮は人を区別せず、正しく法律を適用したので、厳しくとも人は不満を抱かず、蜀の市民生活は安定し、軍隊は規律を守り、整然と動いたのです。