ケージを安全に降ろし命を守る竪坑の「巻揚機」と「捲座」

竪坑内でケージを乗降させるためには、ケージに接続するワイヤーを巻き取るための巻揚機が必要だ。その巻揚機が設置されている施設を総称して、捲座まきざ、捲座小屋などと呼ぶ。巨大な鉄製のドラム・巻胴まきどうに巻き付けられたワイヤーが、竪坑櫓の滑車を経由してケージを吊り下げ、坑道へ向かう作業員たちをピストン輸送してゆくのだ。

主力の第二竪坑の捲座小屋は、コンクリートにトタン張りで、他よりも規模が大きかった。とはいえこれは、1949(昭和24)年に造り替えられた新しいものだ。それまでの巻揚機が置かれていた基礎は、過去の上層採掘の影響で地盤が不安定になってきており、そのままでは運転継続が困難になる可能性すら出てきていた。

新たな巻揚機の基礎は重さ250t、直径9mの鉄筋コンクリートの円筒を岩盤まで沈めた巨大なもの。日々坑内員や採炭された石炭を運び続けるケージの動力部分であるだけに、これだけの頑強な基礎が必要なのだ。

しかし再建後、第二竪坑捲座は台風による被害を受ける。1956(昭和31)年の台風9号により端島全体に甚大な被害がもたらされた。捲座の上屋も被害を受け、すぐさま復旧工事が進められた。

1956年(昭和31)、台風9号によって崩壊した地盤の復旧工事
提供=軍艦島デジタルミュージアム
1956年(昭和31)、台風9号によって崩壊した地盤の復旧工事

第一竪坑の捲座は基礎などの痕跡も含めて所在がはっきりとわかっておらず、第二竪坑捲座は昭和初期に造り替えられたもの。第四竪坑は通常排気用として使われており、捲座はほとんど稼働していなかった。そのため、現存する第三竪坑のレンガの壁が世界遺産の対象となっている。

大規模炭鉱にもかかわらず端島に「ボタ山」がなかった理由

ところで、一般的に炭鉱には、排出した岩石や質が悪く用途がない石炭の総称である「ボタ」を集めたボタ山がつきもの。高く積み上がったボタ山が炭鉱の象徴となっているケースも少なくはない。

ところが端島では、大量に産出されたボタを外周拡張のための海の埋め立て工事に使っていた。端島の最初の埋め立ては1897(明治30)年。その後も段階的に埋め立てられ、1931(昭和6)年まで計7回の埋め立て工事が行われて現在の面積となった。

風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)
風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)

また、ボタは投棄されるだけでなく、坑内でも使われていた。石炭を採掘したあとの穴に埋め戻す、充填という作業の資材としてだ。坑内の浸水や落盤を防ぐため、あるいは、石炭の自然発火を防止するためという理由がある。島の北側、外海に面した31号棟の2階半の位置には、ボタを運ぶためのベルトコンベアの跡がある。住宅棟を貫通する形で、コンベアが設置されていたのだ。

だが1956(昭和31)年5月に、ガス突出により3名の死者が出る事故が発生。1964(昭和39)年8月には、自然発火によるガス爆発が起こり、死者1名、重傷者9名が出ている。

これによる操業区域の水没後、三ツ瀬区域の採炭が開始されるまでの約1年間は、品質のいい石炭が産出されず、ボタばかりが産出された。そのため大量のボタが海に投棄されることとなり、島西側の海岸には1年間ほどボタによる浜辺が出現したという。しかし結局はそれらも海中に投棄され、ボタ山はなくなった。

風来堂(ふうらいどう)
編集プロダクション

編集プロダクション。国内外問わず、旅、歴史、アウトドア、サブカルチャーなど、幅広いジャンル&テーマで取材・執筆・編集制作を行っている。バスや鉄道、航空機など、交通関連のライター・編集者とのつながりも深い。編集した本に『秘境路線バスをゆく 1~8』『“軍事遺産”をゆく』『地下をゆく』(イカロス出版)、『攻防から読み解く「土」と「石垣」の城郭』(実業之日本社)、『路線バスの謎』『ダークツーリズム入門』『国道の謎』『図解 「地形」と「戦術」で見る日本の城』『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト・プレス)、『ニッポン秘境路線バスの旅』(交通新聞社)、『2022年の連合赤軍 50年後に語られた「それぞれの真実」』(深笛義也著、清談社Publico)、『日本クマ事件簿』(三才ブックス)などがある。