※本稿は、風来堂『カラーでよみがえる軍艦島』(イースト新書Q)の一部を再編集したものです。
日本の工業発展に貢献した軍艦島産の良質な石炭
日本における石炭鉱業は、近代工業が急速に発達した明治から昭和にかけて隆盛を極めた。その中で端島炭鉱の開発が大きく動くのは明治後半から。日本の工業化の波に乗り採炭設備の充実とともに凄まじい勢いで発展し、昭和に入ってからも、石炭需要を支える一端となった。
国内では北海道と九州が石炭の主要な産地だったが、とりわけ九州は埋蔵量が多かった。特に端島の西側海域は良質な石炭が採れるため、「黒ダイヤ列島」とも呼ばれていた。1934(昭和9)年時点で、端島の年間石炭産出量は約22万t(トン)だった。同じく資源豊富な高島炭鉱は、同年約25万tを産出している。この時点で端島炭鉱はまだ、高島炭鉱の後塵を拝していた。
1937(昭和12)年に日中戦争が始まると、軍事強化を図る日本政府が打ち出した「石炭増産需給五カ年計画」を受けて、端島、高島の両炭鉱だけでなく日本各地の炭鉱で産出量が激増する。増産体制下の1941(昭和16)年には、端島が年間最高産出量となる約41万tを産出。ついに高島炭鉱の約37万を上回った。
その後の端島の発展は、産業的背景も大きく関わっている。太平洋戦争後、日本のエネルギーの主力は石炭から石油に転換しつつあった。だが、工業などあらゆる分野の近代化に欠かせない鉄の製造には、その工程で上質な石炭が不可欠。軍艦島は製鉄需要に応えることで、戦争による特需が失われた後にも、石炭の一大産地としての地位を維持し続けることになる。
端島の石炭は「ガスが多くて自然発火しやすい」という危険性も
端島は、炭質と炭層に特徴があった端島で産出される石炭は、強粘結炭という性質の石炭だった。
石炭は一般的に炭化の度合いで分類され、最も炭化が進んだ石炭を無煙炭という。炭化度は、無煙炭に劣るが、火力の強い石炭が瀝青炭で、特に上質な瀝青炭が強粘結炭だ。この強粘結炭は燃やした時の火力が非常に強く、製鉄などで必要となるコークスの原料にも用いられ、石炭の中では最も価値が高い。特に端島の石炭は灰分や硫黄分の含有が少なく、日本一の品質との評価を得ていた。
一方、不純物の含有率が低いことで、石炭の微粉化率(物体が細かくなる比率)が高くなり、自然発火の傾向が強かった。炭鉱ではガス湧出量も多く、ガス突出(岩盤を破ってガスが吹き出すこと)が起こりやすいというリスクも抱えていた。
鉱夫たちが竪坑を通って坑底まで降りる「海の下の炭鉱」
端島で産出した石炭の用途は、まずは製鉄業やガス工業向けが半数以上の割合を占めていた。日本の鉄鋼業では、世界の各産地から原料の石炭を輸入し、それぞれの石炭を配合することで安価かつ高品質のコークスを製造していた。端島の石炭はコークス製造時に生成されるガスも燃料として重宝された。そのため、複数の大手ガス会社からの需要も多かった。
製鉄関連、燃料ガス関連の需要の他に、端島産の石炭は船舶燃料用にも用いられた。暖房用や浴場用といった一般用途、さらには窯業用などもあったが、いずれもごくわずかの数量にとどまっている。
端島は海底炭鉱であるため、竪坑を通って坑底まで降り、そこから水平坑道と斜坑を通って掘削現場に至る。端島における主要稼働区域下の炭層は、海面下600m付近までは傾斜が40〜45度なのだが、それより深い場所では傾斜がきつくなり、海面下700m以深では60度を超える。この急傾斜では坑内掘りの機械化が難しく、地上への石炭運搬などでも制約が生じることもあった。
三菱の財力と技術力を結集し「地底の大工場」が完成
軍艦島では、外海に面した西側が島民のアパート群や各種の生活施設であり、内海に面した南東部に竪坑が二つあった。三菱所有となる以前、第一竪坑が開削されたのは1886(明治19)年だが、技術的に未熟だったため本格的な採炭には至らなかった。この第一竪坑は、1897(明治30)年の坑内火災により水没してしまっており、ほどなくして閉鎖されている。
その後、明治中期以降になると三菱の財力、技術力が投入され、第二竪坑、第三竪坑が完成する。さらに1923(大正12)年には、当初は採炭用だったが後に換気用として使われることになる、第四竪坑も完成した。
1974(昭和49)年の閉山まで稼働を続けたのは、第二竪坑と第四竪坑だった。三菱が端島の炭鉱経営を手がけた直後に稼働を始めた第二竪坑だったが、最新型巻揚機の導入など時代に合わせて設備が強化され、長らく主力竪坑として活躍した。第二竪坑とほぼ同時期に稼働を開始した第三竪坑も主力竪坑の一つだったが、昭和初期に閉鎖されている。
軍艦島の最盛期を支えた第二〜第四までの3本の竪坑では、ベルトコンベアの設置など機械化が進んだ。坑内採掘では、坑内に新鮮な空気を送り込むための換気設備、染み込んでくる海水を除去する排水設備、鉱員の安全確保や事故防止のための保安設備など、採掘関連以外の周辺設備の充実も必要不可欠だった。
多くの鉱員が採炭に従事していた当時の軍艦島の炭鉱は、「地底の大工場」と呼ばれるほど最新鋭の設備が整っていたのである。
手掘りから24時間機械化体制へ 採炭現場の技術進歩の歴史
石炭の起源は、陸上で寿命を終えた植物の遺骸と、その上に流水が運んできた泥や砂が積もって形成される泥炭と考えられている。地表に堆積した泥炭はやがて地殻変動の影響を受けて沈下してゆき、上からの土の圧力と下からのマグマの地熱によって押し固められる。これが石炭の形成過程だ。
この堆積と石炭化の過程で泥炭は褐炭〜瀝青炭〜無煙炭の順に性質を変化させ、何百万年、何千万年という長い年月をかけて、それぞれ地層を形成する。こうして「炭層」と呼ばれる石炭の地層ができあがるのだ。炭層の厚さはさまざまで、数cmのものから100m以上に及ぶ場合もある。この炭層が、隆起や浸食により採掘可能な深度に存在するー帯のことを炭田と呼び、この炭田が炭鉱として開発・採炭可能な区域である。
近代技術の粋を結集した効率的な採炭作業法が発展
炭鉱では深度ごとに掘り進められた坑道で採炭作業を行うが、その技術も時代が進むにつれて進歩した。明治〜大正期はツルハシを用いて人力で壁を削って採掘する最も原始的な採炭方法、いわゆる「手掘り」だったが、昭和10〜20年代にはコールピックによる作業が主力となっていった。
発破とは文字通り、火薬による爆破で採掘する方法だ。岩層に発破孔を穿ち、そこに火薬を装填して発破をかける。穿孔作業はタガネとセットウと呼ばれるノミとハンマーで行われていたが、やがて機械化されることになる。コールピックとは小型の手持ち採炭機械で、圧縮空気を用いてノミを叩き、その打撃によって岩石や石炭を破砕するというものだ。
昭和30年代になると、ホーベルやドラムカッターといった機械の導入が進む。ホーベルは大型の機械で、切削部を壁面に押し付けながら往復させ、カンナで削るようにして炭壁を切り崩すものだ。ドラムカッターは回転する歯によって切削する大型機械。これらの登場で採炭効率は飛躍的に向上した。
そうした採炭能力の向上とともに、それに見合う運搬能力も求められるようになった。切羽(坑道の先端)にはチェーンコンベアが導入され、その先の主要坑道では機関車が牽引する炭車が用いられた。竪坑下から地上までの運搬は巻揚機がその役割を担った。
近代化とともに多くの作業が機械化されていったが、採炭作業を担うのはやはり、鉱員たちの力が必要だった。特に坑内員の作業は過酷を極め、温度約35度、湿度約95%という蒸し暑さの、暗く狭い坑道で労働していた。戦時中の採炭作業は24時間体制で、12時間で区切った1日2交代制。一度現場に向かえば、12時間は海底深くの坑道から出てこられないのだ。
戦後には8時間の1日3交代制となったが、機械化が進む一方で、労働環境は長らく悪かった、という一面もある。
ケージを安全に降ろし命を守る竪坑の「巻揚機」と「捲座」
竪坑内でケージを乗降させるためには、ケージに接続するワイヤーを巻き取るための巻揚機が必要だ。その巻揚機が設置されている施設を総称して、捲座、捲座小屋などと呼ぶ。巨大な鉄製のドラム・巻胴に巻き付けられたワイヤーが、竪坑櫓の滑車を経由してケージを吊り下げ、坑道へ向かう作業員たちをピストン輸送してゆくのだ。
主力の第二竪坑の捲座小屋は、コンクリートにトタン張りで、他よりも規模が大きかった。とはいえこれは、1949(昭和24)年に造り替えられた新しいものだ。それまでの巻揚機が置かれていた基礎は、過去の上層採掘の影響で地盤が不安定になってきており、そのままでは運転継続が困難になる可能性すら出てきていた。
新たな巻揚機の基礎は重さ250t、直径9mの鉄筋コンクリートの円筒を岩盤まで沈めた巨大なもの。日々坑内員や採炭された石炭を運び続けるケージの動力部分であるだけに、これだけの頑強な基礎が必要なのだ。
しかし再建後、第二竪坑捲座は台風による被害を受ける。1956(昭和31)年の台風9号により端島全体に甚大な被害がもたらされた。捲座の上屋も被害を受け、すぐさま復旧工事が進められた。
第一竪坑の捲座は基礎などの痕跡も含めて所在がはっきりとわかっておらず、第二竪坑捲座は昭和初期に造り替えられたもの。第四竪坑は通常排気用として使われており、捲座はほとんど稼働していなかった。そのため、現存する第三竪坑のレンガの壁が世界遺産の対象となっている。
大規模炭鉱にもかかわらず端島に「ボタ山」がなかった理由
ところで、一般的に炭鉱には、排出した岩石や質が悪く用途がない石炭の総称である「ボタ」を集めたボタ山がつきもの。高く積み上がったボタ山が炭鉱の象徴となっているケースも少なくはない。
ところが端島では、大量に産出されたボタを外周拡張のための海の埋め立て工事に使っていた。端島の最初の埋め立ては1897(明治30)年。その後も段階的に埋め立てられ、1931(昭和6)年まで計7回の埋め立て工事が行われて現在の面積となった。
また、ボタは投棄されるだけでなく、坑内でも使われていた。石炭を採掘したあとの穴に埋め戻す、充填という作業の資材としてだ。坑内の浸水や落盤を防ぐため、あるいは、石炭の自然発火を防止するためという理由がある。島の北側、外海に面した31号棟の2階半の位置には、ボタを運ぶためのベルトコンベアの跡がある。住宅棟を貫通する形で、コンベアが設置されていたのだ。
だが1956(昭和31)年5月に、ガス突出により3名の死者が出る事故が発生。1964(昭和39)年8月には、自然発火によるガス爆発が起こり、死者1名、重傷者9名が出ている。
これによる操業区域の水没後、三ツ瀬区域の採炭が開始されるまでの約1年間は、品質のいい石炭が産出されず、ボタばかりが産出された。そのため大量のボタが海に投棄されることとなり、島西側の海岸には1年間ほどボタによる浜辺が出現したという。しかし結局はそれらも海中に投棄され、ボタ山はなくなった。