台風時は決死の覚悟で用を足すが、便器から海水が吹き出す
島では生活用水の確保が困難な時期が長かった。その上、ほとんどの居室にトイレが設置されていたが、16〜20号棟(日給社宅)、30号棟、65号棟の旧棟部分には閉山までトイレが設置されておらず、共同便所を利用していた。
共同便所は日給社宅と65号棟旧棟に2カ所、それ以外は各階に1カ所ずつあり、それぞれの共同便所に大便器5〜6個が設置されていた。その真ん中を、配水管が最上階から地下の溜耕まで貫通し、各便所から斜めの枝管を出していた。水道がないため下水処理もなく、トイレの排水管は海と直結していたという。
落としトイレ(汲み取り式便所)という性質もあり、特に台風などが来た時は、配管を逆流した海水が便器口から吹き出すこともあった。また、溜耕の中では排泄物が海水で塩漬けのようになり、十分に腐敗や分解ができないまま海に放流されたため、海水の汚染が進み、戦前には伝染病が発生したこともあった。
その後、汚水浄化槽が造られ、いったん浄化してから海に放流することになったが、島で採用されていた半水洗式のトイレはバケツを使って海水と一緒に汚物を流していたため、排水管に鉄が使用できなかった。その代わりに土管やコンクリートを使うなど工夫をしていたという。
トイレが共同なので、子供たちの人気は「トイレの近くの部屋」
トイレは現代でこそ、ゆっくり座って落ち着ける場所だと感じている人も多いかもしれないが、この島のトイレは和式の共同で、ゆっくりできることもなく用を足したらすぐに出なければならなかった。閉山前の頃にはトイレは2軒で1つを使用し、清掃当番宅の玄関には名札が掲げられていた。掃除は積極的に行われて清潔を保つようにされていたというが、それでも臭いはしていたそうだ。
また、トイレの場所によっては、昼でも裸電球を点けなければならないほど暗かった。子どもにとっては、この長くて暗い廊下を夜の時間に歩くのは恐怖であった。そのため、どこかで玄関が開く音が聞こえると、他の部屋からもトイレに行きたい子どもたちが出てきて連れ立つという状況がたびたびあったという。島内での引っ越しのたびに、子どもたちはなるべくトイレ近くの部屋を希望していたそう。